何でも「あなたの感想ですよね」といえてしまう問題 【ネーゲル 『どこでもないところからの眺め』, ALife Book Club 5-1】
「それってあなたの感想ですよね」が小学生の間で流行り、親御さんが困っていると聞きました。
でもこの言葉は本当にすごくて、たいていのことはこれひとつで口答えできます。
「うなぎっておいしいよね」みたいな本当の感想だけでなく、「早起きは体にいい」とか「地球は太陽の周りをまわっている」みたいな一般的にうけいれられていることでもいけます。
これに、常識だからとか、そうに決まっているとか答えたら思う壺であって、本当にただの感想になってしまいます。
(常識は時代で違いますし、ご存知の通りガリレオはそれでひどい目にあったわけです。)
全部屁理屈にすぎないともいうこともできるでしょう。(実際、一番効果的な返答はうるさいなあ、といなすくらいだと思います。)
でも、これは案外本質的で重要(そして厄介)な問題で、今回から取り上げる本、ネーゲルの『どこでもないところからの眺め』(原題:"The View From Nowhere")の主題はまさにこのあたりにあります。
最初の部分を早速引用してみます。
まとめると、この本は個人の見方(主観)とそこを超えた見方(客観)をどうつなぐかということを論じています。
「あなたの感想ですよね」という批判は、それはあなた個人の見方にすぎませんよねということなので、すごく平たく言うならば、この本の主題はどうやったら「あなたの感想」といわれないですむかと言い換えられます。
そして、実はこれがものすごく厄介な問題であるということがだんだんわかってくると思います。
ぜひとも今後そのあたりをお楽しみください!(書いている僕は、厄介なものを抱え込んでしまったことをただただ嘆いていますが、、)
個人の見方から客観へ
まずはこの話の大前提を確認しておきます。
それは、何かを理解するときの出発点は個人であるということです。
「理解する」の主語は人であり、ひとは全知全能の存在ではないので、何かを理解するという営みの出発点は常に個人の見方にあります。そして、そこを超えようと試みることで、より一般的で他人に共有されうる見方、すなわち客観に向かっていくのです。
客観というのはすでに当たり前のようにあるものではなくて、個人の見方を苦労して乗り越えることでやっと得られるものである、ということは強調しておきたいと思います。
(だから、それを顕在化させる「あなたの感想ですよね」という言葉は立派だと思っています。個人の見方を誠実に超えようとするのは大変なことで、それゆえに、あたかも「客観」であるかのように個人の見方を押し付けることが本当に多いです。この言葉を言われて怒る人は、その大変さを無意識的に感じている(そして、それをやりたいと思わない)からなんだろうと思います。)
典型としての物理学
この客観を目指す試みの典型例が科学(とりわけ物理学)です。
物理では物事を記述するのに数学を使います。
数学は、単純な仮定と論理だけで組み立てられていて、それだけ共有できればみんな同じ結果を再現できます。
だから、数学の言葉を使っていれば、誰にでも共有できる見方、客観に至る道がひらけるのです。
(このようにだれでもアクセスできる言葉に置き換えることを「形式化」といいます。これは客観に至るための必要条件ゆえ、以前取り上げたベイトソンも「形式化」を重要視していました。)
数学の言葉でかかれた物理法則をつかって自然を記述する、という物理のアプローチはとても強力です。(物理出身のひいきめがあるとはいえ)客観的な理解として現在最強なのは物理学といっていいでしょう。
(物理の強力さを納得されない方は、まずは特殊相対性理論など勉強してみてほしいです。光速度不変や絶対座標がないといったシンプルな仮定だけで、どれだけ多くのことが言えるのか、びっくりすること請け合いです。)
とはいえ、これすら根本から否定することは可能です。
物理学では、まず物理法則に従っている世界が存在し、僕らはその中の一部であるということを暗に仮定しています。
そしてこれを認めない、と言ってしまえばいいのです。(観念論、懐疑主義、独我論といったキーワードで調べてみてください。)
これを主張する人を根本的に反論することはできません。
僕ができるのは、物理学がうまくいっているのだから、それを受け入れたほうが楽しいよという提案くらいで、それこそ科学者はうるさいなあで済ませていることと思います。
でも、主観から客観に至る難しさに誠実になるためには、こういうことを受け入れることも必要でしょう。
客観をめざすことで失われるもの
そんな、根源的な限界があるとはいえ、客観にいたるうえで実質上強力なのは物理学的描像であることにかわりありません。
だから、本書は物理学を褒めて終わり、、、とは残念ながらなりません。
実はここからが本書の最骨頂です。
ネーゲルはここから、客観を追い求めることで逆に理解できなくなるものがあると論じ始めます。
それは、その過程で捨て去ろうとしてきた「個人の見方」そのものです。
なんといっても、これから離れようとしていたので当たり前のことですし、科学にとってはどうでもいいことにも思えます。
ところが、最近の科学は外界だけでなく自分自身にも向かってきました。それは認知科学、脳科学といった心の科学です。
心を理解したい、ということは究極的には各個人の見方を理解したいということです。ところが、ネーゲルは、客観を目指すという科学のやり方そのものゆえに本質的な限界があるというのです。
よって、うるさいなあですませてこれた、客観性を目指す科学の手法そのものを考え直すことを迫られることになってきました。
次回予告:ネーゲルのアプローチ
本書はこれに対する解決策の提案であり、ざっくりいうと、個人の見方をも包含するような客観的見方を作ることで解決しようとします。
これ、ほんとうに難しくて僕もあまり納得していないのですが、次回からは少しずつネーゲルの考えを紐解いていこうと思います。
心の科学と個人の見方をつなぐというモチベーションは以前取り上げたヴァレラとも共通するものです。こことも比較しつつ理解を深めていければと思います。
なかなか難しい話になってきましたが、ぜひとも次回もお付き合いください!
今週もお読みいただきありがとうございました。