美観(ニ)
日に焼けた便箋には、かつてこの家に住んだ御人の執着を感じ取った。
この家は前の住人がいた。その人を私は知らないが、風のような人だったと隣人に伺った。
なるほど風ならばひと所に収まってはいられないだろう。
そんな風が残した紙ひとひらは、言外の心地を私に感じさせた。矛盾したようなその現象に私は愛らしさを感じた。
便箋には文字が書かれてはいない。
家具などは綺麗になくなっているのに、便箋を残ったのはきっと、最後まで便箋はしまわなかった、何か書こうとしたのか。
住居を去るときに人は何を書くのか。
新天地への期待、現住所への不満、次に住むだろう人に宛てた心得。
待て、なにか書こうとしたわけでもないのか。
緩衝材?便箋を緩衝材にするなんて粋な人だな。
日常に便箋がいるというのは、何か書く習慣のある人だろう。
手紙だろうか、もしかして文学かもしれない。
あぁ、こんな邪推が身を滅ぼすかもしれないというのに。
小さい時から要らぬ想像で、痛い目を見ることもしばしば。
父のなんでもない悪戯に、ふと口に出して罵った。父のあの悲しそうな顔。一瞬が永遠だった。
あの顔がいつまでも忘れられない。
本当に、言葉が現実になるんじゃないかと寝られなくなった。
父は私にちょっかいをかけることがなくなった。
ここから十数年、父は死んだりなどしていないし、僕の言葉は時間が希釈したのかもしれない。いや、むしろはなから、気にしてなどいなかったのかもしれない。年端のいかん息子に、何を言われたところで傷つく大人ではなかったのだろうか。
どこでそんな汚い言葉を覚えたのか、と嘆きの感情だったのかもしれない。
日に焼けた便箋を僕は捨てられずに数日たった。
風の人は今何しているだろうか。
新しい便箋に愛の言葉を書き、封された手紙をポストに投函して、その足で図書館へ。
僕の知らぬところで風は吹いている。
せめて、僕がここで風を気にかけていることを忘れ去られぬようにしたかった。
便箋に何か書いてやろう。
僕は手紙に情愛をしたためる趣味はないので、自分のことを書くことにした。
「僕は早くに起きて朝日を見るよりは、遅くまで寝ないで外をほっつき歩く方を好む人間です。こういう回りくどい言い回しをしてしまう面倒な人間です。」
ーーな人間ですなんて、大仰なことを書けるのは、これを読むのは自分しかいないからかもしれない。
大きなことを書いている時は、自分が大丈夫にでもなった気になる。現実逃避。現実逃避。
風の人、あなたの便箋はもう僕のものです。