ある日の通勤時、運良く席が空いたので座りうつろうつろしていた。数駅するとたくさんの人が乗り込んできて、僕の目の前には女性が立った。最初、気付かなかったのだがマタニティマークが目に入り、微々たる老婆心で席を譲った。刹那、しかめ面が目に入った。目も合わなかった。黙って座るとスマホを取り出して視線を落とした。
優先座席ではなかったし、優先する義務はない。不快な気持ちになったが、その気持ちの裏で大した施しを行った気になり、感謝されることを微かにも期待してしまった卑しさに気付き、途端恥ずかしくもなった。
物やら金を貸す時はやったと思え、とよく親に躾けられたことを思い出した。
他人に働きかける時、反作用が必ずあるわけではないのだとこんな年齢になって実例を伴って理解した。
以上が、席を譲ったことに対する後悔かと言われるとそう簡単な話でもない。
仮に席を譲らなかったとしたら、そのことはまた後味の悪さにつながるだろうし、僕は記憶にある限りの後悔で夜眠れなかったり、なんでもないときに罪悪感情がフラッシュバックして、その出来事が雨の日のスニーカーの如く身体中に染み渡り、僕の全部を支配してしまうことさえある。僕にそういった性質があるのは自覚しているので、あと気味悪さの残るようなことは避けたいと常々思っている。
しかし、ときにこの恥の感情が僕を生かしているのだと思うときがある。恥は外観上、負の感情であることは間違いないし、恥を感じるのはそれ自体として良いことではない。それゆえに一般的には忌避されるものだろう。が、その先が大切なのではないか。思うに恥があるから反省があり、反省こそが罪悪感情の芽を摘むのではないか。
芽を摘み、道を開く。そうすることでしか再び道を歩くことはできない。
恥を知らぬ人間は獣と何が違うというのか。
せめて人間でありたいと切に願う。
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