坂本政十賜 写真展「GENIUS LOCI 東北」【後編】
この記事は坂本政十賜 写真展「GENIUS LOCI 東北」 のために事前に行われた、坂本政十賜と篠田優によるインタビュー記事【後編】です。
【前編】はコチラから→●
展覧会の詳細は下記でご覧いただけます。
https://altmedium.jp/post/673962187041210368/
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【作家】坂本政十賜
【聞き手】篠田優(写真家・Alt_Medium)
〔作家プロフィール〕
坂本 政十賜 / SAKAMOTO Masatoshi
1965年東京生まれ
〔個展〕
2014 「雪・青森 - 東北2」(蒼穹舎 / 東京)
2013 「東北」(蒼穹舎 / 東京)
2009 「青森の家」(ジュンク堂新宿店カフェ / 東京)
2007 「空間=風景」(プロジェット / 神奈川)、「FLOATING」(西瓜糖 / 東京)
2001 「明治神宮2001,1/1-2」(名刺画廊Art Life Oyamadai / 東京)
2000 LIGHT WORKS EXHIBITIONS 4 天野太郎企画「TOKYO SNAP」(ギャラリーライトワークス / 横浜)
1999 「INCIDENT 1999/TOKYO」(ギャラリーNWハウス / 東京)、'99写真「人間の街」、プロジェクトpart2 NEO DOCUMENTARY企画「1998-1999/OSAKA」(ガーディアン・ガーデン / 東京)
1997 「off ground」(ギャラリーNWハウス / 東京)
1996 「構築の間」(多摩美術大学上野毛校舎 / 東京)
1994 「非属領的地勢観察」(ギャラリーNWハウス / 東京)
〔Website〕
https://sakamototofukei.wixsite.com/my-site
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篠田:坂本さんの写真集には『TRAVERING』や『FLOATING』と題されたものがありますが、今回の《GENIUS LOCI 東北》も通過者や移動者のような、定住者の視点とは異なる立ち位置から撮影されていると思っています。そのようなあり方は先ほどから坂本さんがいうような地主ではない根無草のような生まれと関係があるように感じますが、いかがですか。
坂本:大いに関係しているでしょうね。土地に根ざしている人はその土地を守り、居続けることが仕事だから、そういう意味でそこに「いる」か「いない」かの問いはないと思います。逆に言うと居なければならない。一方僕はそこにいなければならない理由が軽いから「いる」か「いない」かを常にどこかで考えている。じっくりドシっとした感じは持てない。そういう環境の違いは、考え方はもちろんのこと、人格や存在のあり方にも大きく影響しますよね。僕の場合、なんかソワソワしている感じでいるんだけど、元の性格もあるけれど後天的な条件においてもそんなじっくりと構えている暇はないし、年々本当にやることが多くなって、生きていること自体が通過者のようで(笑)。撮影したって当然そうなると思います。
あと写真を撮ることは僕にとっては日常じゃない行為というか、ハレの行為みたいなところがある。いつもカメラを持ってハッと思ったらピッと撮るタイプじゃなくて、「今日は写真を撮りに行くぞ」とわざわざ出かけるタイプ。「うわ、すごいものと出会った」っていうのが写真行為の楽しさだと思いますが、いつもカメラを持ち歩いて撮っている人って、日常の中に突然現れるそういう非日常を逃さんぞ、という姿勢で生きているんだろうからすごいと思います。僕なら疲れちゃう。カメラを持ったら神経は張るので、疲れたら手放さざるを得ない。これも日常がソワソワしていることと関係しているのかな。
篠田:大雑把だけれども通念的なものとして、通過者というのはつまりプロ写真家のような存在で、ある場所を訪れ、たとえ短い滞在時間でも、そこに住む人が気づかないような瞬間を捉えて作品をつくってしまう。一方、定住者はどちらかというとアマチュア写真家的な立ち位置で、対象に多くの時間をかけることでそうした時間の長さを価値に転換していく、という分け方がなされてきたように思うんですよね。そうしたことを踏まえて面白いなと思ったのは、明治時代以降、現在へとつながる日本の近代史を批判しつつも、撮影者としてはいわゆる近代的な主体という立ち位置を引き受けざるを得ないという部分が坂本さん自身にあるところです。地主とは違う機械的な労働者、たとえばチャップリンの『モダン・タイムス』のように、常にあくせくしていて余暇もなく時間に追われている姿は、多くの写真家にも当てはまります。だからツーリスト的に、通過者として撮影していく。これはとても近代的なあり方だといってもよいと思うのだけれど、そういった立場から敢えて近代というものを批判してみようとしたときにこそ、そこに含められている人々の生き様をしっかりと見ることが重要だし、おそらくその基底となる土地というものがとても大切になっていくのでしょうね。
坂本:同感です。冒頭に述べたように根無草の自分が、故に教育による理想に基づいて生きてきたのが、この撮影行で地面からも考えざるを得なくなったのは確かです。制作をしていく過程で僕自身がこうしたことに気がついていくのは面白いことですよね。
篠田:そのスパンは短くとも長くとも、写真家自身が変革され最終的には見方も変わってくることは根源的なことだと思うんです。
坂本:さっき篠田さんが話した60〜70年代の「近代写真」批判に重なることかもしれないけど、一般的には写真を撮ることって、既にあるコンテキストを、真を写す「写真」を持って証明するためのものと捉えている節は多分にあると思う。それがデジタル写真でいくらでも加工できる時代になっても基底をなしていて、そこの部分は変わらない。でも写真家はそれではいけないと思うよ。存在意義がなくなっちゃうから。
篠田:それはきっと坂本さんが2014年に開催した個展「雪・青森」に際して書かれていた「腑に落ちる」という表現と関わりがあるように思えます。
自分が撮影している東北の「家」が醸し出す独特な雰囲気、その理由が、何かすとんと、自分の中で腑に落ちるのを感じた。
2014年「雪・青森」(蒼穹舎 / 東京)展覧会掲示テキストより、一部抜粋
坂本:そう、写真家ってそこが全てだと思った。仮にある人が並べた写真を前にした時、その写真群に説得力を感じるかどうかは、本人が腑に落ちているかどうかにかかっている。その作品コンセプトや作家の背景などの情報の有無や、上手い下手とかも関係ないレベルで、それは伝わってしまうと思う。今回のシリーズの撮影開始当時の僕が特に意識したのは、理屈抜きで腑に落ちているかどうかだった。腑に落ちたことから写真家(自分)が始まり、その過程で様々な人との関係が生まれ多くを教えてもらい、それに影響を受けた自分が、例えばひとつのことを違った角度で見ることができれば、それは全く違う現実を知ることにもなる。自分の経験と視野を広げるループを生む起点において、何より大切にしなければならないことが、最初に自分が腑に落ちていることだと思ったんです。こういうループがあると僕みたいに本を読めなくても、人との関わりの中で知ることの喜びを得ることもできる。そんな風に世界に入っていけるのが写真のいいところ、特にストレート写真のいいところだなって思っています。ストレート写真について言うと被写体は重要だと思います。その被写体と出会うことは唯一写真家の才能というか持っている性分で、出会ったものがすごいと作品を通して語られる言説の幅も広がるのだな、と思いました。
篠田:「腑に落ちる」という経験は今回のような「家」以外でもありましたか?
坂本:対象物という括りで言えば「家・建物」に包括されてしまうものがほとんどだけど、ほかに唯一あるとすれば植物かもしれない。今までずっと自分を根無草だと言ってきたけど、居住地域として僕は東京西部からは出たことがなくて、ずっとそのあたりをうろうろしているんです。ある年の1月中旬頃、他の地域ではあまり気にならない「植物」が気になった。この季節の乾いた空気と強い斜光、枯れてはいるけど芽吹きの気配がある植物、それらに気を取られて撮り始めた。自分が生まれ育って土台にしてきた気候風土を改めて認識した感がありました。
篠田:今の話は坂本さんの《武蔵野》のシリーズのことですよね。僕はあの路傍に生きる植物のあり方をストレートに写しとったシリーズがとても好きです。そういえば坂本さんは《武蔵野》もまさにそうですが、基本的に作品のタイトルは《青森の家》、《東北》のように簡潔かつ直接的に被写体をあらわすものか、『TRAVELING』、『FLOATING』のように写真家の状態を示す言葉を選んでいるように見受けられます。このようにシンプルな言葉を作品名とするのはどうしてですか?
坂本:単に文学の経験がないから、気の利いたタイトルをつけられない(笑)。若い頃、僕が2回目の個展をしたときに、世話になっている先輩写真家から「坂本くんのタイトルって即物的で最悪だよね、もっとイメージが広がるようにしないと」と言われた。本当に文才がないに尽きる。《東北》《武蔵野》とか土地の名前もどうかと思ってるんです。「東北」って言った途端に「東北」って感じで見るわけだし、そういうことは本来的には関係がない。しかし、そう言っているそばからそうとも言い切れないところも出て来たりと、タイトルについて考えると言葉の問題にぶち当たっちゃう。そもそも割り切らないと言葉は使えないから、そこは割り切ろうと(笑)。自分が使える言葉っていうのは地名や、自分の身体状況くらいしかないから止むを得ず。もし文才があったら、違ったかもしれないね。
篠田:僕は、坂本さんのタイトルからは簡潔で最低限ゆえの的確さと、逆説的に豊かな余白を感じますよ。結局写真自体をタイトル一言で表すことなんてできません。ただ、坂本さんの写真はどこか写真が言葉を批評しているようにも感じました。
坂本:タイトルを褒められたのは初めて(笑)。それと「言葉を批評する」で思い出したけど、欠損や未熟さが、時にそれを欠損とか未熟と位置付ける側(完備・成熟した側)を的確に批評する、もしくは結果的に批評性を持ってしまうということは、ままあることだよね。子供の存在が大人にとって常に批評性を持っているのもそういうことだと思うし。それで僕は自分の写真に決定的に欠落しているのは言葉だと常々思っているんです。最近ではそれが自分の肝だろうと思ってトップシークレットなんだけど(笑)、篠田さんの「写真が言葉を批評している」という感想は、それを見抜かれた感があってちょっとドキっとした。
それとその前のタイトルを地名にする話で、最近東北にも行けなくて、先日出張先のエリアを事前に地図で見て、地形的に良さそうな場所を見つけて前乗りしてみたら、いい佇まいの家々に出会うことができたんです。場所は浜名湖の北、みかんで有名な三ヶ日。写真の上がりも良くて、いつか発表する時のことをちょっと想像してみた。タイトル=地名の法則でいくとタイトルは「三ヶ日」ということになる。地名自体は素敵だけどなんか自分が撮っている理由とそぐわない気がした。あのエリアを指す広域の名称もあるんだろうけどね。そういう意味で「東北」が示すエリアはとにかく大きくて、特定の地域性がボケるということはある。だからこそ東北と一言で片付けていいのかというアイデンティティーの問題にも当然なるんだけど。でもそういう含みを持たせる部分が良くも悪くも「東北」という言葉にはあって、それがいいような気が最近はしています。《東北》みたいなタイトルの付け方は他のエリアでは難しいかもしれない。
篠田:僕も長野県のことを一括りに信州って呼んだりしますけど、かといって長野は北と南ではかなりちがう。北は豪雪、でも南は全然雪が降らないなんてこともあるくらい、長野ってとても広いので、そのなかでも思考や習慣などいろんなことが全然違うんですよね。
坂本:そうでしょうね。三ケ日問題が勃発して(笑)タイトルについてまた悶々としていた時に、たまたま友人の編集者との会話の中で、東北の家のシリーズをGENIUS LOCIという言葉で言われるところのものじゃないの?とその友人が僕に言ったんだよね。僕は知らなかったのでググったら、日本語で言うところの地霊だった。とどのつまりそうなるのかなと思った。ただラテン語だから響きが意味不明な感じで面白いのと、アルファベットだから日本語のように生々しくなくて今回使ってみたんです。でも次は日本語にしてみようかな。「三ケ日の地霊」、やっぱり身も蓋もない感じだね(笑)。
聞き手:篠田優(写真家・Alt_Medium ) | 編集:Alt_Medium
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