新山清 写真展「松山にて」【特別編 −松山時代の新山清】
この記事は新山清 写真展「松山にて」 のために事前に行われた、新山洋一さんと篠田優によるインタビューの【特別編 −松山時代の新山清】です。
展覧会の詳細は下記でご覧いただけます。https://altmedium.jp/post/715092972510773248/
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〔筆者略歴〕
篠田 優 / SHINODA Yu
1986年 長野県生まれ。
2013年 東京工芸大学芸術学部写真学科卒業
2021年 明治大学大学院建築・都市学専攻総合芸術系博士前期課程修了。
主な個展に、「有用な建築」(表参道画廊、東京、2021)、「抵抗の光学」(リコーイメージングスクエア東京、2020)、「text」(Alt_Medium、東京、2019)、「See/Sea」(ニコンサロン、東京・大阪、2017)。
主なグループ展に、「信濃美術館クロージングネオヴィジョン新たな広がり」(長野県信濃美術館 、2017)など。
〔Website〕
https://shinodayu.com/
1.
新山清は1911年に愛媛県の松山市で生まれました。1935年、理化学研究所に就職したのち、翌年には、濱谷浩も名を連ねた写真の愛好会であるパーレット同人会に参加。以降は積極的に作品を発表し続け、同時に多くのコンペティションで入賞を重ねていきました。
しかし、アジア・太平洋戦争の勃発は、新山を含めた多くの写真家に、それまでと同じような撮影行為の継続を許しませんでした。また、戦中の度重なる空襲によって、特に都市部においては、多くの写真作品や資料が灰燼に帰したことは周知の事実です。ただし新山は、戦前に撮影したネガやプリントを四国に移していたため、辛うじてそれらの喪失から逃れることができていました。
そして敗戦を迎え、身辺の整理をひとまず終えたのち、新山は故郷である松山に向かいました。今回の「松山にて」展に出陳される写真は、戦後まもない1946年から1952年までの約7年のあいだに、主に同地で撮影されたものです。本稿ではその写真群を、新山の子息でありアーカイブの管理者でもある新山洋一氏の命名に倣って《松山時代》と呼びます。
《松山時代》に含まれる写真のモチーフは多種多様であり、そのことは膨大な写真群に比べればほんの一握りでしかない本展の出陳作からも、十分にみて取ることができるのではないでしょうか。
微睡むような空気を感じさせる街区の様子。由来を定かにはしがたいオブジェクト。たとえばそのような写真からは、新山のもつある種のシュルレアリスティックな感性を受け取ることができます。ですが、《松山時代》に含まれているのはそのようなイメージだけではありません。記録に徹したような−−代表的なものを挙げるのであれば人物が集合した形式の−−写真もまた、その一角を占めています。本展にもそのようにとらえることのできる写真が幾枚か並びます。
どのような目的だったのか、夕暮れらしき時間帯に撮影された女性たちの、定型的な集合写真。そして、その写真に前後するタイミングでシャッターが切られたと思わしき、同じ女性たちのくつろいだ様子。彼女たちはおそらく、ただ、そこで話をしていただけなのでしょう。そして新山は、ただ、その姿をフィルムに焼き付けただけです。しかしそうであっても、その二拍、緊張と弛緩の、あるいは形式/非形式的な、イメージのあいだに流れていたはずの時間こそ、写真にとっては戦後と呼ぶに相応しいものであったとここでは述べておきたい。もしかしたら、それらのイメージを裏打ちしていたのは、撮影者と被写体がともに分かち持っていた、記録という行為への欲求だったのかもしれません。そして、その記録という言葉の前に急いでさらなる語を接ぐとすれば、たぶん、“自由な”という言葉を選ぶ必要があるように、わたしには思えるのです。
2.
たとえば「要塞地帯内水陸ノ形状又ハ施設物ノ状況ニ付撮影、模写、模造若ハ録取又ハ其ノ複写若ハ複製ヲ為スコトヲ得ス」(要塞地帯法)や「其ノ区域二付測量、撮影、模写、模造若ハ録取又ハ其ノ複写若ハ複製ヲ禁止シ又ハ制限スルコトヲ得(…)」(軍機保護法)といった文言のもと、戦時下における写真撮影は物心の両面から、国家によって厳しく規制されていました。
まず、物質面では感光材料や印刷用紙の流通が国家によって統制されていたことが知られています。このことは写真家に一種の飢餓状態を引き起こしました。もちろんそれは物資の不足故に生じた事態ともいえますが、しかし、国策宣伝の担い手であった者たちには豊富にそうした資材が供給されていたこともまた事実です。
では、心理的な側面とはなにか。法規とは文字列を介して、人間の身体や行動に影響を与えます。それがもっとも効力を発するのはおそらく、ミシェル・フーコーがパノプティコンという装置を例にとって明瞭に言語化したように、その抑圧的な状況を人々が内面化して、自らと他者を自主的に監視することによってです。戦争状況における写真雑誌には、啓蒙的な調子で粉飾されていても、そうした国家による決定の一翼を担うような記事が掲載されていました。
このような状況において許された写真とは、なんらかの用を果たすためのイメージであったとごく簡単に指摘することができます。そして、誰の、何のための用であったかと問われれば、それは端的に国家にとって有用なもの、さらにいえば戦争遂行の用を果たすためのものであったと答えることが可能でしょう。当然のことながら新山もまた、そのような状況から逃れることは、決してできなかったのです。
終戦を迎えて、事態は変化したのでしょうか。GHQによっても情報統制は続きましたが、ひとまず個人の撮影にある程度の自由が取り戻されたことは確かです。しかし、その日を生き延びるための糧すらも満足に入手できない状況において、写真に関する物品を得ることが極めて困難であったことはいうまでもありません。都市部においては、土門拳をはじめとした著名な写真家であっても進駐軍を主な顧客とする現像・焼き付け業などで糊口をしのがざるを得ませんでした。
焦土と化した都市から比較的戦災を逃れた故郷へと移動した新山は、奇しくも写真家にとって幸運な環境へと逢着することになりました。前述したように、新山は戦前から写真家としてすでに頭角を現していましたが、その名声と実績によって、同地の裕福な写真愛好家たちから良い指導者として迎えられることになったのです。そのことはまた、新山に、潤沢とはいえないまでもいくばくかの、自由に使うことのできる感光材料をもたらしました。このような偶然と必然の分かちがたい巡り合わせによって《松山時代》は、まず物質的な意味において、可能となったのでした。
幾重にもなった棚田が目を引く海沿いのパノラマ、点々と明かりがともる夜の風景。それらは戦争という時代の只中にあっては、地形が明らかになる高所からの撮影の禁止や灯火管制下の暗い夜によって、許されることのなかったイメージでした。それだけではありません。新山の写真のなかで、ソフトボールの試合を今まさにおこなおうとしているのは女性です。また、ファッションショーの開催を迎え、手作りの看板を横にして、まぶしげな表情の女性たちが並んでいます。そして、遊ぶ子供たちの姿。そのなかには幼いころの新山洋一氏もいます。これらはおそらく戦中であれば、イメージ(物)とひと(心)の双方において、プロパガンダの素材とすることを除き、無用と断ぜられたものであったのだと思います。
1カットさえ無駄にできない貴重なフィルムを用いて、新山はそうした様々なものの姿を写真にとどめました。無用であることを強いられたものたち、それらを心のままに有用へと転換すること。そしてその存在を、時の表面に、確かなかたちで刻み込んでおくこと。わたしは《松山時代》に、戦後における自由のひそやかな形象化をみることができるような気がしています。
− 篠田 優
※本稿は、新山洋一さんへのインタビューによって得られた知見や、その際にご共有いただいた資料をもとに執筆しました。度重なる訪問に対しても快くご対応いただいた新山さんに深く感謝するとともに、そうした機会を設けるためにご尽力いただいた太田京子さんにもこの場にて心よりお礼申し上げます。
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