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新山清 写真展「松山にて」【前編】

この記事は新山清 写真展「松山にて」 のために事前に行われた、新山洋一さんと篠田優によるインタビュー記事【前編】です。

展覧会の詳細は下記でご覧いただけます。
https://altmedium.jp/post/715092972510773248/

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【インタビュイー】新山洋一
【聞き手】篠田優(写真家・Alt_Medium)

〔作家略歴〕
新山 清 / Niiyama Kiyoshi
1911年 愛媛県生まれ。東京電気専門学校卒業。
1935年 理化学研究所に入社。
1936年 パーレットカメラ同人会のメンバーとして写真家活動を開始し、作品を多くのサロンや国際的な写真雑誌に発表。また、国内外を問わず、様々な写真コンテストで入賞を重ねる。
その後、全日本写真連盟や東京写真研究会での活動を通して日本のアマチュア写真家育成に携わる。
1958年 旭光学に入社し東京サービスセンター所長に就任。
1969年 5月、逝去。

1950年代に“Subjektive Fotografie”(主観主義写真)を提唱したドイツ人写真家のオットー・シュタイナートによって広く世界に紹介され、現在も国内外で高く評価されている。

〔インタビュイー略歴〕
新山 洋一 / Niiyama Yo-ichi
1944年生まれ、(株)コスモスインターナショナル代表。
1979年 コスモスインターナショナルを創業。
2004年 Gallery Cosmosを立ち上げ、2015年までギャラリストとしてさまざまな写真展を開催。また、父・新山清の作品アーカイブに努め、その作品を国内外で積極的に発表し続けている。


篠田:今日は新山洋一さんに、お父様である新山清さんと作品のこと、またその作品の管理やそこに至るまでの経緯についてお聞きしたいと思っています。まず清さんについて教えてください。1911年に愛媛県に生まれて、1935年には理化学研究所就職、と遺作集である『木石の詩』には記載されていたのですが、間違いないでしょうか?

洋一:間違いないです。1911年8月30日生まれ。あとは多少間違っていても大丈夫だと思う(笑)。

篠田:清さんが生まれた場所は愛媛県のどのあたりだったのでしょうか?

洋一:今は松山市になっています。東垣生です。小学校とかそういうのはみんな西垣生にあります。

篠田:書籍にはそこまで詳しく書いてなかったので、まず初めにお聞きできてよかったです。それでは洋一さんが清さんの写真を整理し始めたきっかけや経緯を教えてください。

洋一:どこから話したらいいかわからないけど、親父としては僕に写真をやってほしかったみたいですね。僕は日本大学第二高等学校に進学したので、後に日芸に入ることもできたでしょう。だけど当時の僕は英語そして貿易に興味を持っていたので、神奈川大学経済学部貿易学科に進学したんです。日芸も受けてはいたんだけど、試験途中で帰っちゃった。だからその頃親父は周りに「うちの息子はね、何かね、写真の方にいかないらしいよ」ってぼやいてたらしいけどさ(笑)。
僕は一人っ子だったけど勝手なことばっかししていて、インドが渡航自由化した翌年、友達と一緒に船で行くお金を貯めるため、ペンタックスのサービスセンター所長を親父がしていた縁で学生の頃からペンタックスの外国部でアルバイトしてたんです。

篠田:大学に入った時から語学を生かした仕事をしていたのですね。

洋一:そうそう。その頃はカメラを輸出しようと思っても必要とされる書類が多くて、輸出は簡単なことじゃない時代だったんです。でもそういう時代があったから日本にはいっぱいカメラ会社もあった。
僕が働いていた頃の昭和38年というと、8時間働いて時給50円、1日400円なんですよ。すごい時代ですよね。3年目ぐらいからは少し上がって600円。
そんな時代で働いたお金を貯めてインドに行ったらスペイン語に強く惹かれて、スペインに留学したいって言い出してたんだけど、ちょうど親父が宣伝部長をやっていたところに来た外国の光学会社部長の口利きで、中小企業の方から輸出・輸入の部署を立ち上げてほしいと言われ、なんだかんだ丸め込まれて就職しちゃった。

篠田:うまく乗せられてしまったんですね(笑)。

洋一:そう。就職後もお互いの会社が近いこともあって親父とは飲んだりしていました。そうしたら、1969年、僕が24歳の時に突然親父が目黒駅で刺されて亡くなってしまったんです。
だから今度は僕がお袋を面倒見ないといけない。それから3年後、先輩の紹介で給料はいいけど相当忙しそうで、規模は小さいけど医者が社長をやっている会社に海外部長として転職したんです。そこはすっごいお金をくれる代わりに初日から夜11時まで勤務するような会社でした。ただその会社は比較的お金もあったので会社のパンフレットやポスターを、亡くなった親父を懇意にしていた写真家やその人が仕事をしている優秀なデザイナーやイラストレーターと組んでチラシやロゴマーク・ポスターをガンガン作ったりもしました。

篠田:会社の広告部門みたいなことですね。

洋一:だけど、仕事は面白かったのですが、医学の分野は難しい。このまま続けるといろいろ責任を負わされそうだなぁと思い始めた矢先、チラシを作っていた時に一緒に仕事をした人から、六本木でストックフォトの会社を立ち上げるけど営業がいないからどうだ?と声をかけられて、なにもわからないまま30歳で急に写真業界に入ることになったんです。

篠田:やっと話が身近になってきました。そこではじめて洋一さんは本格的に写真を扱うようになったんですね。

洋一:そうそう、そこでは求められた案件にあった写真を探したり、ディレクティングして集めた写真を販売したりする。カレンダーやレコードジャケット、旅行会社に広告会社。
僕は30歳まで写真を見ることを仕事にしていなかったから、いい写真と悪い写真の違いは全然わかんなかった。だからクライアントから今までに見たこともないような写真を持ってきてくれなんて言われたって、どの写真もみんな綺麗に見えたくらい。

篠田:インターネットで検索なんて出来ないから、人間が直接見つけてくるしかない時代ですね。

洋一:でもその仕事で写真の見方を覚えていろんな会社を訪れたことで、どこもポジフィルムの整理があんまり良くないことに気がついたんです。
そこから僕は整理用品を自作し始めました。

篠田:すごい。働いている中での気付きから用品を自分で企画して作り始めていたとは。

洋一:大体35歳ぐらいから自作した整理用品を共同写真要品に卸したり、共同写真要品が展示会でブースを出す時はその端で一緒にブースを出してもらったりした。それが現在のコスモスインターナショナルにも繋がります。
でもその頃はまだ商品のバラエティがなくて、日本営業写真協会の募集で暗箱カメラやレンズの会社などと共同で、2年に1度ドイツのケルンで開催されていたフォトキナに小さいブースを出していたんです。
僕が最初に行ったのはちょうどドイツが統一された1990年。その年も僕と同じような会社がいくつか来ていて、プリントファイル社とはそこで仲良くなった。

篠田:なるほど。フォトキナで仲良くなったプリントファイル社の商品はいま、コスモスインターナショナルの主力商品のひとつですね。

洋一:その後はイギリスのコンサーベーションリソーシス社(*現在の本社はアメリカ合衆国)とかフィルムガート社(*リネコ社(アメリカ合衆国)より譲渡)。それからモノクロームっていうドイツの会社ともフォトキナで出会って仲良くなった。その結果商品のバリエーションが増え、僕はアーカイバル用品にシフトしました。振り返れば1990年のフォトキナからいろんなことが動き始めた気がします。
そしてやっぱりお袋にね、親父の写真を見せてやりたいなという気になった頃、ちょうど使ってない倉庫があったんで、そこを急遽写真のギャラリーにしようと思い始めた。知り合いもいっぱいいたから、当時日本カメラの名物編集長だった梶原高男さんと組んでその後何年もギャラリーコスモス主催の写真展を続けました。
ギャラリーの正式な展示の第一回目は長野重一さん。長野さんは親父のことをよく知っていて、第一回ということで目黒を撮りおろししていただきました。で、第二回目はハービー・山口さん、それから木村直軌、高木由利子と続いていきました。
それと長野重一さんの展示をやる前に僕は親父の写真を飾って個人的にお袋なんかに見せたりもしていました。その後2004年秋に親父の展覧会を正式に開催し、その年にお袋が亡くなりました。お袋の本音はわからないけど、見にきた親戚のおばさんたちと一緒にギャラリーの隣にあったイタリアンレストランで食事したので、まぁよかったんじゃないですかね。
ギャラリーも始めたし、面白いことをしようってその頃は話していたけど、その建物は築年数が古くて雨漏りしてきたので、そこを引き払って現在の場所(*東京都目黒区下目黒3丁目)の3階に移転しました。
現在ギャラリーはありません。2階には営業・倉庫があります。

篠田:ギャラリーコスモスにはそうした歴史があったのですね。

洋一:それだけじゃなくて赤坂にも一箇所ギャラリー作っちゃったし、広かったからなんだかんだと費用がかさみましたね(笑)。そこから親父の写真展は毎年1月と5月にやっていたんですよ。1月はヴィンテージプリントで、親父の命日がある5月は、その展覧会の度に加藤法久さんにモダンプリントを焼いてもらいました。
そうやっているうちに、ドイツのモノクローム社がファイル用品や、箱、バッグなど、いろんなものを売る大きな店をベルリンに作ったんです。それで、その店の中二階にギャラリーも作ったしフォトキナの広報にも載るから展示しないかという話を持ちかけてくれたので、親父の写真を持って行って展示しました。その時の僕はドイツでやったぞーとか言ってビールをガバガバ飲んでたわけですけど(笑)。
んで、その展覧会ではモダンプリントと、ヴィンテージプリントの中でもちょっと面白そうな写真を選んで飾りました。そしてその中にオットー・シュタイナートから届いていたレターヘッドを1枚ちょこっと入れといた。
ただそれだけなんですよ。昔、オットー・シュタイナートから親父に手紙がきていたのを僕は見ていたから。
それで、ドイツから帰ってきたらモノクローム社のギャラリーからある夫婦が作品を買いたいと言っていると告げられた。日本では2004年くらいから展示していたけど全然売れなかったし期待せずに、いくらで買うの?って聞いたら、1点につきその当時の大学の初任給ぐらいの値段で買う、と。
僕にとっては青天の霹靂で、その時は2点買ってもらえました。
そしたら翌年、今度はその夫婦が日本に訪ねてきたんです。

篠田:いきなりですか?

洋一:そう。急にフォーシーズンズホテルの人から電話で「そちらに行きたがっている夫婦がいて、『なるべくたくさんの写真を見たい』って言ってる」って。その日はちょうど休みだったから長テーブルを用意して写真を見せたら、その夫婦はあーでもないこーでもないと2人で相談し始めた。
結果18点。
値段交渉のあと、この場で小切手を切るから写真を持って帰りたいと言われ承諾しました。そしてさらに翌年、今度はオットー・シュタイナートと新山清の二人展をやるという。

オットー・シュタイナートと新山清の二人展DM

しかもこの前買った18点の写真は全部売れちゃったから二人展のための写真をまた新たに送れって。
それでベルリン工科大学で勉強した國田佳恵さんが当時キッケン・ギャラリー(*Kicken Berlin)でアルバイトされていたのでドイツ語の契約書の日本語訳を作ってくれ、写真はドイツ国内同士の方が輸送は簡単だからとモノクローム社に預けていたものを動かしてもらうことにしました。
だけど必要とされたのはヴィンテージプリントのみ。モダンプリントはすぐに送り返されちゃった。仕方ないから日本からプリントを追加で何十点か送りました。そして開催されたオットー・シュタイナートとの二人展。委託作品は全部で100点くらいかな。結構売れたんですよ。その売り上げで『「新山清の世界」パーレット時代 1937〜1952』と『「新山清の世界」ソルントン時代 1947〜1969』の本を作ることができたんですからよかったし、助かったよね。

『「新山清の世界」パーレット時代 1937〜1952』
『「新山清の世界」ソルントン時代 1947〜1969』

篠田:作品を売ったお金を使って、作品を本という新たなかたちに導いたのですね。驚いたのは、洋一さんの写真保存材料の輸入や販売の仕事、ごく私的に開催した展覧会が、現在の清さんの作品への再評価というか再注目に結びついていたということです。

洋一:そうなんですよ。それがちょうど用品持っている強みかな。例えばお父さんが写真家で息子も写真家とかいう人や、お父さんは写真やっているけど子供は全然違う仕事をしている人もいますよね。ですが多くの場合、遺された写真に対して何もできない人が多いと思うんですね。どうしてかっていうと、保存する用品を買わなきゃいけないとか、そもそも何を用意したらいいかわからないとか。発表するにしてもギャラリーを借りて展覧会を開催するならその費用は、マットは、フレームは……とか。だから仮にやろうと思う人がいても、実際的にはなかなか難しいなと思いますね。

コスモスインターナショナル内

篠田:そうですよね。物質的にもそうですし、知識的な面でもそう思います。洋一さんはお仕事をしていく中で整理の仕方とか、保存の方法も学んできたんですね。

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