発症から生きる決断へ
はじめに
私は1969年製のALS患者です。現在は川崎市在住ですが出身は大阪で、2009年に転勤となりそのまま現在も川崎で生活しています。
こちらに来て思ったのは、首都圏の周辺は自然が豊かだなぁということ。丹沢や奥多摩、奥秩父、少し頑張れば八ヶ岳や谷川岳だって日帰り登山が可能という環境もあって、ほどなくして登山にドはまりしてしまいました。月一、二回のペースで丹沢や箱根で体力を維持しつつ、シーズン中に二、三回は衣食住をザックに詰めて南アルプスや八ヶ岳で遊ばせてもらっていました。
ALSの罹患を確信したのは“ぼちぼち夏山シーズンだぞ“という2013年の6月中旬でした。まだ左足が動きにくくなっていただけで何かができなくなったというほどではなかったのですが、少し声が出にくくなっていることに気づきALSだと確信しました。なぜ確信したかというと、その頃の症状をもとにインターネットで調べたところ、首より上に症状が出て他の症状も当てはまる病気がALSしかなかったからです。
ALSになって
最初の症状はその年の2月ごろに突然現れました。
朝起きて左足を一歩前に出そうとしたら、何かが引っかかったような感じで思ったように前に出ません。一瞬「あれ?」と思いましたが、長年の腰痛持ちということもあり、そういうのが影響しているのだろう、そのうち治るだろう、とまったく気にしていませんでした。しかし5か月近くたっても治るどころか動きにくさは増していきました。
さすがにおかしいと思い、症状をインターネットで検索すると複数の病名が候補として出てきました。その中にはALSもあり、そこに書いてある典型的な症状のいくつかは私の症状と一致していて最も疑わしい病気でした。ただ、十万人に一人か二人というかなり希少な病気ですから「まさかこれはないな」という感じですんなりとは受け入れず、しつこく他の候補を調べていました。
結果的にはALSだったわけですが、久しぶりに当時を振り返ると確信した夜はさすがにショックを受けて、夜中にスマホの検索結果を見ながら何度も「マジかよ…」とつぶやいていたことを思い出します。
さて、とりあえず『自分調べ』のままでは話が進まないので、近くの大学病院で診察してもらい確定診断をいただきました。さらに、その大学病院からセカンドオピニオンを勧められたので専門性の高い病院に2週間検査入院をし、そちらでもALSの確定診断をいただきました。その際は3~5年の余命宣告と人工呼吸器による延命措置について説明を受けました。この時は呼吸器装着など全く頭になく、3~5年後の死までをどう生きるかということだけをどこか他人事のようにぼんやり考えていました。
寝たきりで、もしかしたら全くコミュニケーションが取れなくなる(というTLSについてそんな認識だった)かもしれないのに何のために生きるの?ドラマのセリフじゃありませんが「そんな状態で生きていると言えるのか?」と思っていました。
テクノロジーとコミュニケーション
確定診断から2年ほど経つと手足の不自由さが増し、単独での外出は制限せざるを得ない状態になりました。自宅でも介助なしでは立ち上がることも難しく、妻はフルタイムで働く会社員なので朝9時から夜7時半までは交代でヘルパーさんなどが入るという状況となりました。仕事はこの頃から傷病休暇に入り、外出は月一回の通院くらいで稀なイベントとなりました。
こうして症状の進行とともに社会とのつながりがどんどん希薄になっていきます。こうなるとインターネット、SNS等を活用した外部とのつながりが重要になりますが、腕と指が動かしにくくなり声も出しにくい状態になってくるとパソコンやスマートフォンの操作も困難になります。
そこで以前から調べていた視線入力装置を導入することにしました。インターネットで検索すると視線入力装置やフリーソフトのことを詳しく説明しているサイトがすぐに見つかり、自分好みの設定にするのに少し時間がかかりましたが無事導入することができました。
実際に使ってみるまでは「目で操作するなんてかったるいことに耐えられるかな?」なんて思っていて操作性に対してあまり期待していませんでしたが、ちょっと使っているうちに妻が普通に入力するのと同じくらいのスピードで文字入力できるようになり、その他の操作もほぼストレスなく使えるようになりました。
これらの事が目の動きだけでできるなんてすごいと思いましたし、何よりこれを可能にしているフリーソフト開発者や研究者の皆さんに感謝です。このテクノロジーとの出会いは大きかったです。これまでのコミュニケーションを維持しつつ新しいつながりも増えましたし「ALSでもいろいろやれるんじゃないか?」という可能性を感じるようになりました。
生きるための準備をせよ
2016年3月。自宅から30分くらいの場所でICT救助隊の「難病コミュニケーション支援講座」が開催されるという案内を見つけたので参加することに。
二日間開催で私は二日目の午後から参加したのですが、会場は医療や福祉の関係者と思しき人達でいっぱいで、予想外の熱気に驚きました。この時に都立神経病院のHさん、ICТ救助隊のNさん、Iさん、川崎市中部リハビリテーションセンター(中部リハ)在宅支援室のSさん(作業療法士)と出会い、その後の私の判断に大きな影響を与えることになります。
Hさんは視線入力にスイッチを併用すればもっと早くて楽にパソコンの操作ができるようになると教えていただき、さらに「マイボイス」という自分の声をデータで残して合成音声としてコミュニケーションに活用する取り組みのことも教えていただきました。この後すぐ「マイボイス」のデータを作るためにHさんのもとを訪ねたのですが、この時のHさんの言葉は私の胸に刺さりました。
Hさんは突然「ガッツリ生きてくださいね、呼吸器なんて当たり前でしょ」と突然、「さらっ」と笑顔で言ったのです。私は不意を突かれ感情があふれそうになりました。「どんな決断でも支持し応援する」と言ってくれる人は多いですが「生きる道を選ぶべき」とはっきり言う人はALS患者に対しては少ないのではないでしょうか。このHさんを入れて私は3人だけでした。
このHさんの一言でこれ以降、生きることを強く意識するようになりました。また、ICT救助隊のNさんとIさんもスイッチのことなどで相談に乗っていただいたり、ヘルパーさん達に文字盤の使い方や口文字をレクチャーしていただいたり本当にお世話になりました。
さらに中部リハ作業療法士のSさんから療養生活を見学したいと連絡があり、初めは座位を維持するための補装具のような身の回りの相談から始まったのですが、そこから生活全般について中部リハの在宅支援室が側面からきめ細かく支援してくれるようになり、私の中にあった生きることに対するマイナスのイメージは徐々に薄らいでいきました。
トドメは日本ALS協会理事・Kさんの「迷っているならまず生きるための準備をせよ」というSNSでの書き込みでした。ぎりぎりになって生きる決断をしたとしても、生きるための環境はすぐには構築できない場合が多いからまずは生きる準備をせよ、というようなことが書かれていたと思うのですが、この書き込みを見てようやく生きるための準備を始める決心をしたのでした。
いつかは
2016年の9月ごろは急激に体力が落ちてすぐにでも気管切開か?という不安もあって、想定よりも少し早めの2017年1月に気管切開をしました。呼吸の問題というよりは誤嚥を防ぐことが主目的だったので当初は呼吸器はつけていませんでしたが、大きな一歩を踏み出したな、という思いでした。
こうやって生きていくための準備をしていると、私を生かそうとする人がたくさん現れます。そういう人たちに接していると自然と生きていこうという気になるから不思議です。今では「あいつを生かすために頑張ってよかった」と言ってもらえるように生きなければなぁと思うようになりました。そしていつか私も誰かにそんな風に思ってもらえるようになるために何をすべきか、何ができるかを日々模索しています。