「今こそ観るべき古い映画」
最初の作品は「無法松の一生(1958年版)」どぇーす。
主演はわれらが三船敏郎さん! チャンネル変えてたらこの人出てたから止めて観だしたんだよね。
それにしても、この人のこの眼の輝きはなんなんでしょうか。松五郎役はこの人をおいて他になし。そんな感じです。
共演は高峰秀子さん。おきれいです。完璧です。
この映画は、
「役者になるために生まれてきたお二人の作品」
なのです。
おもしろいに決まってます。
そして笠智衆さんが大事な場面でちょこっと登場し、松五郎という人物に奥行きを持たせます。
ちょっと話すだけですが説得力がすごい。
調べてみるとこの映画、第19回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞してました。
世界で認められた作品だったんですね。
これ最初に観たのは10年くらい前だと思うんだけど、
途中から観たくせになんかスゲェ感動したのを覚えてる。
ものすごい一途さと献身、そして「いわれのない差別」というバリアの非情さ。
とにかく心に残る作品だった。
今回またしてもネトフリで発見し、もう一度観てみることにした。
初めて観た時は途中からだったのでわからなかったが、オープニングの製作スタッフクレジットに
「脚本 伊丹万作 稲垣浩」
とあった。
伊丹万作さん
映画監督でも有名な伊丹十三さんの父親だ。
だが私が伊丹万作さんを知ったのはずっと昔に読んだ本で紹介されたある文章でだ。
「だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。」
伊丹万作・戦争責任者の問題より抜粋
日本中で「私らは騙された」と言って敗戦の犯人探しをしていたであろう1946年に発表されたものだ。
ぜひ全文を読んでいただきたい。
これを読んだ当時の私は伊丹万作という人物に気骨を感じつつ
「この人はフェアな人だなぁ」と思ったものである。
そんなフェアで気骨のある漢が、松五郎が生きた明治から大正を描くとき、
やはり偏見や差別を描かずにはおれなかったんだろうなぁ。原作がベースではあるが。
こんなシーンがあった。高峰秀子さんが演じる吉岡良子が息子・敏雄に松五郎がいかに優れた人物かを語るシーンだ。
「おじさんはただ走るのが早いだけじゃありませんよ。松五郎さんは生まれつき運が悪くて車なんか引いておられるけど、あの人がもしか軍人なら間違いなし少将ぐらいにはなれる人だって…お父様も言うておられたぐらいよ…。」
高峰秀子さんに本当に「これ以上ないというほどに優しく」言わせたセリフである。
良子は心から松五郎を信頼し尊敬している。そんな風に見える、美しいシーンだ。
しかし、葬儀社で働き職業差別を受けた経験のある私は
「運が悪くて車なんか引いておられる」
の一言を聞き逃せませんでした。
松五郎は所詮「車なんか引いている人」なのである。
もちろん良子は本当に信頼し尊敬していたでしょうが、
前提として「住む世界が違う」という、意識などしないほどに良子の中に染み込んだ常識という名の差別意識。
これはおそらく当時の日本人の多くが持っていた意識なのだろう。それを良子を通して私たちに見せようとしたのではないだろうか。
結果的にこの「松五郎は車なんか引いてる人」という潜在的な差別意識が悲しい結末につながっていくのです。
良子は「もしか軍人なら」と言っているが、どう見ても車引きは松五郎の天職であり、当時すでに高い社会的地位があり、
厳しい階級制度で成り立っている軍という組織の中で、松五郎が伸び伸びと活躍できるわけがない。
ただ、人間としての技量、器の大きさをわかりやすく説明するために
軍人の言葉(階級制度)を用いたんだろうね。
今回観ていて思い出したのがトム・ハンクス主演の映画「フォレスト・ガンプ」。大好きな作品です。
主人公の純粋さと走り続けるイメージがダブってね。
様々な差別や偏見の中でも全く気にせず、伸び伸びと生きる姿もまたダブって見えます。
松五郎は時代を超えて輝くキャラクターであり、作品は永遠のテーマを描いた不朽の名作だと改めて思いました。
「無法松の一生」
是非一度ご覧ください!
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