創作フレンチをゆっくり食べるみたいに
誕生日だからといって子供にあげるようなものもないのでと、神楽坂のちょい高めの和風フレンチレストランへ家族で行くことに。"和風フレンチ"の矛盾を抱えているのは料理だけでなく、その内装にいたっても一室に敷かれたカーペットとさらにその上に椅子がしっかり足を下ろすまでに徹底されていた。違和感を覚えたもん負けの格式高いで、思った通りにダラダラちびちび料理が出てくる。
映画でも美術でも、一流のものはそれ以下に馴染んでいる者がもつ素材のイメージを覆してくる。いつも食べている食材が知らない魅力を前面に出している。「高級なものは柔らかい」というイメージさえ、見透かされていたように壊してくる。伏線は回収すれば良いものではなく、大声で泣けば感動するわけではないように、柔らかいものや甘いだけが美味しさではないことを優しく教えてくれる。
もう一つ教えてくれたのは――これは最近もしかしてと思っていたことだが――
幸せとは、"ゆっくり食べること"
だってこと。満腹であることは、そこに至るまでの幸せな時間が気づかせてくれないのだが、なかなかにトップレベルの不快である。動きたくないし集中もできない。たいていそれは胃の容量の限界がくるのと脳がその信号を受け取るのとのディレイのせいで起こる不具合である。実はもっと少ない量で満腹になれたという後悔をみんな繰り返しているんじゃなかろうか。
ゆっくり食べれば、満腹に早く気づけて、余計な量を食べなくて済む。美味しい時間を持続させることは食材にとっても調理人にとっても本望なはずなのに、日々のなかでは気づけない。お金をかけないで気持ちよくなれる方法がこんな簡単なものだとは。
だとしても、口に物を詰めることで得られる快楽にも最近気づき始めているから難しい。