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オトナのヒーローショー 〜ストリップを観た〜

ショーが始まったら"大人しく"観ましょうね。

大人だから、"大人しく"。なるほど確かに、子供のときのヒーローショーはそうではなかった。

選ばれればステージの上に上がれるし、観客の声援がショーのなかに届いて力を与える。ステージのこちらと向こうは同じ世界のなかにある。憧れのものに触れられる夢の体験から、希望を持って成長していく。

歳をとっていくにつれて、憧れのものは、触れられないものになっていく。筋書きがないし、世界は僕らを楽しませるためにあるものではない。

ストリップショーが大人の嗜みなのは、そういった暗黙の了解によって演者と客の関係が成り立っているからだ。直接的に性的欲求の対象となるものがむき出しになっているからといって、触れてしまってはショーの基本である一対多の関係が成り立たない。触れる触れられる関係は常に一対一のものだから。客側に信頼が置かれていることは、他のどのエンターテインメントよりも近い客席とステージの位置関係に表れていた。

触れていいよと言われたからと言って触れるのも畏れ多いような迫力も、こちらを紳士にさせる。"触れられない"ルールを言い訳に、情けなく弱々しく、オスたちはメスを見上げる。
文明の間で続いてきた男女の間の力関係は、触れ合うことを禁じられるだけでこうも簡単に逆転されうるものなのか。そこには同時に、触れるのを禁止することで、ただ立ち尽くすしかないこちらのちっぽけさを覆い隠してくれる優しさも感じる。

そのショーの強さは女体の神秘的な美しさと力強さだけに支えられているのではない。今回は 5 人の踊り子が順番に演目を披露する構成だったが、それぞれが自由で工夫された時間を創造していた。

初めの一人はベテランらしき踊り子さん。艶めかしさとは無縁なキュートな衣装でポップなダンスミュージックを踊る。不躾に言い表せば年不相応な幼い衣装だったが、曲が変わり物語が展開したところで納得がいった。しっとりとしたラブソングをバックに、これぞストリップショーと感じるレース衣装で登場し、少しずつ裸になっていく。なるほどこれは一人の女性の物語なのだ。あの頃の J-POP の豊かな言葉で、その女性の内なる世界をステージの上に現前させる。
身体が美しいことはあくまで前提で、その研ぎ澄まされたインストゥルメントでセリフを発さず物語を紡いでいく。

2 人目は今週がデビューと紹介される。新人は場を温めることで修業を積むものではと疑問だったが、これもまた浅はかだった。一人目の彼女と同じような構成だったが、演じる者の若さによってそのストーリーは全く違う解釈をもたらす。経験を積んだ踊り子が表現する“女の人生”はいわば来し方で、懐古と後悔の物語。フレッシュな踊り子にとってそれは行く末で、女の子から女性へとめざめる瞬間の瑞々しさが凝縮されていた。こうした未来へ開く構成によって、閉じた空間に希望と爽快感がもたらされた。


三人目の踊り子は、五人中一番手数の多いダンスと表情豊かな演技で物語を表現していた。歌詞のわかる歌を使っておらず、そういった言語表現に頼らない覚悟を感じた。露出も一番少なく、毛色が一味違うショーが中盤にくるスパイシーな構成。


続く四人目の踊り子の出で立ちは、これまでとまるで違っていた。「作りものだ」と感じた。日本人離れした手足の長さと鼻の高さはどこか異国を感じさせる。感じはするが、同時にその顔立ちと乳房は生まれ持ったものではないことに勘づく。背中に刻まれた刺青は商品としてのラベルにもみえ、踊るために作られた人形を見ていると錯覚する。人間味とか文脈から離れ“である”ことより“なる”ことの美しさを強く表現していた。

ここまでの四人のステージで築き上げてきた、演者と観客の“大人“な関係を、トリの踊り子が破壊してきた。

明転したステージ上で黒い衣を纏って背中を向けて立っている彼女の出立ちは、「ラスボス登場」と言わんばかりだった。黒衣を脱いで見えた後の衣装もいわゆる女王様姿。マゾヒストあってのサディストは“関係”のモチーフで、一人でステージをつくる表現者としては相応しくないのではないか。その不安は的中し、彼女はステージと客席の境界線を越えてきた。積極的にこちらに動くよう指示を出し、またぎ、触れ、乗っかる。無邪気に動き回る姿は明らかに「子ども」だった。あの頃見ていたヒーローショーで当たり前に跨いだ境界線を彼女は逆方向に踏み越えた。こちらからは触れられないというルールを盾に完全に私たちを支配してきた。建前によって積みあげてきた私たちの関係は彼女によって空間的にも精神的にも崩された。

良い破壊だった。

彼女が関係を壊してもそれをなかったかのようにしてショーが続く。ここは大人の空間だから。認識できるものの中から、そこにあるべきものとあるべきではないものを選別してそれぞれが過ごしやすい場所を構築する。

ポラ写真の受け渡しの時に対等になる関係性はその後のオープニングショーによって不均衡にリセットされ、ステージ上に最低限の矜持を、ステージ下に最低限の敬意をもたらしてショーを終える。

子どもには見えないたくさんの境界線と諒解に満ちた空間で、大人にしか共感できない深い哀愁と煌びやかな希望を交換し合う。ストリップはオトナのヒーローショーだ。

受付前に並んだブロマイド写真の中に、その日ステージに並んだ五人の集合写真があった。彼女たちは戦隊ヒーローのようでは決してないかりそめの共同体のはずだが、そのバランスは完成されたチームにしか見えなかった。

購入したそのブロマイドを劇場の外で眺めている今、彼女たちが同じ世界線のどこかで暮らしていることが想像できない。それだけ異質で神秘的な時間だった。

@渋谷道頓堀劇場




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