『一晩中』、『オールナイトニッポン0』をひとりで聴いていた。
何をきっかけにか忘れてしまうくらいには前から、生活リズムが崩れてしまっている。もう私の身体は0時を「昼寝の時間」と思っているらしく、3時くらいに目が覚めてしまう。テレビもやっていないし、知り合いも起きていない。起きていたからといって連絡を気軽によこせないのだが。
『一晩中』はそんな人たちのそれぞれの夜をつぎつぎと映し出していった。そんな映画で、それだけでしかない映画。暑苦しかったり落ち着かなかったりで眠れない人もいるし、誰かを待っていて”眠らない”ひとも出てくる。本当にそれぞれの夜をワンシーンごとに切りとって繋げていくだけ。どの人も大きなストーリーを背負うことなくほとんどの登場人物が1度だけしか出てこないから、とにかくたくさんのひとが映画のなかで映し出される。そのせいですべてのシーンが記憶に残っているのかあやしいが、映画を通して言えることは、どの場面でも、ひとりであれふたりであれみんな「きり」だったことだ。ひとりきりの夜はひとりきりの昼より深い孤独がある。そしてふたりきりの夜はどの時間よりも熱くて濃い視線と愛撫を交わしあえる。それは私が近頃毎晩感じているように「他に誰も起きていないだろう」と想像できるからでもあり、外の景色が闇に消えてしまうからでもあるだろう。だが『一晩中』が感じさせるその「きり」の強さは、もしかすると”映画だから”描けるものかもしれない。
昼であれ夜であれ、キャメラでものを映すときは世界を四角く”切りとる”ことになる。フレームは、その外にいるものをまるで世界からなかったかのようにしてしまう。どんな画面の中でもそのなかのものが「きり」となって残される。ただ普通の映画は、画面内の誰かが視線を送り、カメラがそれについていくことで”外側”のものを導入したり、ものの方を動かして画面に出入りさせたりをくりかえして切り取られた一部を積み重ねて世界の全体をつくりあげていくのが映像という仕草である。つまり普通の映画は、ほんとうは画面のなか「きり」の景色を一枚一枚連ねていきそうでなくするのである。
この映画がひとりきりとふたりきりを強くするのは、なかなかそれをしないからだ。画面を出ていった人を追いかけて次の場面につないだり、窓の外を見つめる人の視線の先にキャメラが興味を移ろわせることもない。見ている人も、そこが夜であるゆえにその外になにも待ち構えていないことを了解している。そしてカットバックや時間についての説明をしないことで、同じ一晩をすごしているひとたちから同時性を奪い、さらに彼らをその時間と場所に取り残す。
シャンタル・アケルマン監督は話題の『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』をはじめとする他の作品でも、人やものを画面に映すことが暴き出す孤独を、孤独のままで芸術に仕立て上げてきた。特に『アンナの出会い』や『私、あなた、彼、彼女』では”夜”をそうやってなにかを待つ舞台にしてきた。キャメラを執ったキャロリーヌ・シャンプティエも『ホーリー・モーターズ』にも夜ならではの寂しさが漂う作品である。
映画を観る前の日も見た後の夜も、眠れない「一晩中」を過ごしていた私だが、決してひとりきりではなかった。ラジオを聴いていたから。27時というすべてが仕舞われる時間はずの時間に始まる「オールナイトニッポン0」。タイムフリーが一般的となったいまリアルタイムで聴いている人などなかなかいないだろう。今週はスペシャルウィークこと聴取率調査月間だったので毎晩ゲストがやってきた。霜降り明星@あのANN0、鬼越トマホーク@佐久間宣行ANN0、ニューヨーク@マヂカルラブリーANN0。テレビのなかで多くの視線をあつめる人たちが、なぜかそんな時間に少ないひとに声を届けている。それがもたらす声を届ける側と受け取る側の近さには驚くものがある。パーソナリティたちは画面のなかにいないからこちらとの境界がないように錯覚する。話す声と笑う声が部屋に同居している、それがラジオの近さである。加えてだれでもメールを送れる環境。リスナーもパーソナリティもだれも「きり」になって取り残されない時間。そういう同時性も同じ一晩を過ごしているはずの人たちにはなかったものだ。
『一晩中』のパリにはきっとオールナイトニッポンはなかっただろうから、目覚めてしまって窓辺にたたずむ人もなにも耳に入れずに外を眺めてひとりきりになるしかなかった。オールナイトニッポン0がある私たちはそんな寂しさを強いられることはない。窓の外どころか部屋のなかに電波は存在していて、有楽町のビルにいる芸能人だって、隣にいる。寂しかったらいけないかというとそうでもないけれど、闇のなかの行き場の無さをしのげるところはある。
電波によって、ひとりきりになることを防げてしまう現代日本はシャンタル・アケルマンにどう映るのだろう。まだまだ作品を生み出し続けてほしいのに、みずから命を絶ってしまった彼女の悩みの根源はもはや孤独ではなかったかもしれないけれど、彼女にオールナイトニッポン0があればもしかしたらなにか救いになるかもしれない。そんなとりとめもないことを、まだ改善されない夜の不眠のなかで書き連ねている。きょうはあのがひとりでしゃべっている。わたしはそれをひとりできいている。