2023年8月10日、人生の終わりの始まりの日
告知
医師から告げられた病名は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)。事前に自分で調べていて「もしかしたら、、、」とは思っていた。そして、その不安は「まさかそんなわけない、考えすぎだろ」という、心の安定を望む自分の中の現実否定派の声によってかろうじてせき止められていた。そんなギリギリの緊張状態だった心のダムは医師の一言で簡単に決壊し、不安、恐怖、怒り、悲しみ、驚き、様々な感情が混ざった濁流が一気に心に流れ込み、あっという間に飲み込まれ、そして自分を見失った。
異世界
突然の人生終了宣告。放心状態の自分。冷房の効いた静かな部屋。全てがぐにゃぐにゃと歪んで見えた。私が「起業したほうがいいよ」と勧めるくらい、いつもなら冷静でしっかりした妻が崩れるように泣き出したのを見てハッと我に帰り、逆に怖いくらい冷静さを取り戻していった。自分が話を進めなければと思い立ち、妻が確認しそうなことを私が代わりに医師に質問していった。まずは病名の再確認。聞き間違いなどあるはずもないのはわかっていたが、思わず確認してしまった。それから、事前に調べていた症状や平均余命などとの相違や、予想される通院頻度やその費用など。治癒の可能性がないこともこのときはっきりと告げられた。医師とのそんなやりとりの間、スマホで今の日付と時間を2、3回確認した。なぜかはわからない。一通りのやりとりを終えて一歩部屋の外にでたときから、何もかもが今までとは違う、異世界に迷い込んでしまったような不思議な感覚とともに帰路についた。
帰宅
自宅に帰って、とにもかくにも一人になりたくて、真っ先に部屋にこもった。子供の前で笑顔をつくれる自信はない。椅子に座ってホッと一息、気持ちが落ち着いたところでまずは泣いた。それから泣いた。泣き止んだところでまた泣いた。枕を口に押し当てて叫んだ。泣いた。叫んだ。泣いた。泣いた。泣いた。叫んだ。泣いた。嗚咽。ちょっと過呼吸。泣いた。スマホで日付と時間を見た、動揺した時のクセなのだろうか。泣いた。空のペットボトルとかクッションとか、柔らかそうなものを机とか壁に投げつけてみて、投げるものを選ぶ冷静な自分に腹が立って、そして泣いた。泣き疲れて寝て、起きて、思い出して泣いた。この文章を書いている今現在でさえふとしたはずみで泣いてしまうわけだが、ひとまず落ち着いて部屋の外にでたのは翌日の昼頃。15時間くらい泣き続けたようだ。自分的にはかなり立ち直りが早い方だと思っていて、理由はシンプルに自分に残された時間が少ないということ。「家族と過ごす時間を少しでも長く」、という気持ちが、部屋に引きこもっていることをそれ以上許さなかった。
初期症状
最初に症状に気づいたのは2ヶ月ほど前。手の指先から手首にかけて痛い。ペットボトルを落としたり、スマホを落としたり、心なしかタイピングの反応も弱い気がしていた。だけど、仕事がら一日中キーボードを叩いていていたので腱鞘炎なんて日常の一コマ。「今回はちょっとひどいな」くらいにしか思っていなかった。科学的な根拠はわからないが、いつも筋トレをすると痛みが取れていたので今回もいつも通りに筋トレをして、そしていつも通り2日もすれば痛みは引いていた。
再発
いつもなら、これで数週間から数カ月は大丈夫という経験則だったが数日後には再発。夕飯のあとの食器洗い時にお皿を割ってしまった。なんだか力が入りにくく感じる。まだこの時、「筋トレをやりすぎたか?」などと的外れなことを考えていた。さらに数日後、疲れがとれにくいようなフラつくような感覚が強くなり、「腱鞘炎だけの問題ではないのか?」と、睡眠、食事、運動などに普段よりもよりいっそう気を遣い回復を図った。治ったように思えたり再発したりを繰り返しながら数日が経過、さすがにおかしいと思い始めた。
受診
比較的丈夫な体に生まれたおかげと運良く大きな事故をしたこともなく、人生であまり病院にいく機会はなかった。しかし、この時ばかりは妻の勧めもあり近くの整形外科へ。いつもの腱鞘炎とは違うことを説明したものの、異常なしと診断された。恨みがあるわけでもないが、「この程度の症状で病院来たうえに素人が意見してくるなよ」と言わんばかりの院長のニヒルな笑みを時々思い出す。そもそも小さな町医者で手に負える病気ではないし、早期発見していたとしても何か結果が変わるわけではないので、この点はやはり自分の被害妄想だろう。その後、いくつか病院を周ったが特に異常は見つけられなかった。そして、まさかと思いながらも最後に行った少し大きめの脳神経外科で大学病院を紹介され、その結果が冒頭のくだりだ。
決心
この3日間ほど、インターネット上でALSに関する様々な情報を調べた。その調べた中身についても書きたい内容があるので、それはまた別の機会に譲りたい。今の段階での自分なりの結論として、海外での安楽死を目指すことに決めた。もちろん心変わりする可能性も大いにあり得るが、特別強い断固たる決意というより、そうするのが当然であたりまえのことのように受け止めている自分がいる。ネットですぐに調べられる限り、どうやらスイスだと国外からの安楽死希望者の受け入れが可能なようだ。ただ、割と条件や制約があって簡単ではないらしい。家族の理解という感情的な問題を除けば、私にとって一番のハードルは資金面の問題だろうか。
資金
勤め先の会社にはすでに退職の意向を伝え、急で申し訳ないなとは思いつつも、事情が事情だけに即日から有休消化に入らせてもらった。限りある残された時間を家族と過ごすために私にとっては当然の選択で、1分1秒も会社で無駄に過ごしたくない。傷病手当や障害年金などを申請すれば最低限の生活費はなんとかなりそう。最低限、でしかないが。中学生、小学校、幼稚園。今から育ち盛りの3人の子供達が控えている。今から必要な教育資金をどうするのか。その上でスイスへのデスツーリズム費用は、どうやら最低でも200万円ほどは必要になりそうだ。退職金のないブラック外資系企業に勤めていたことが今さら悔やまれる。かといって、自死を選択するころにはすでに体が動かなくなっているはずで、国内で自死するとなると、自分の力だけでは難しそうなので誰かの手を借りる必要がありそう。そなると自殺幇助の問題もあるし、またシンプルに世間体や子供にあたえる影響が気になっておちおち死んでいられない。楽に死ぬことを許さない、死ぬときまでやたらと死に厳しい社会。
幸福
自分にとって絶対に譲れない価値あるものは自分の家族だけだ。自分の親や兄弟姉妹とも仲は良い。だけど、圧倒的に妻と子供、自分で築き上げた家族のほうが大事に思っている。もしかしたら、妻も子供も、例え動けない寝たきりの存在だとしても、そこにいることだけで幸せを感じてくれるかもしれない。だけど、観賞用に眺められて懇切丁寧にお世話さたとしても、自分にとっての幸せはそこにはない。愛する妻と子供に触れて抱きかかえて、子供も落ちないように自分にしがみつく、そんな双方向にこそ自分の幸せがある。子供の誕生日を入学式を発表会を運動会を卒業式を、ただ眺めているだけでは幸せではない。朝から髪をといてあげたり一緒に服装のチェックをしたり「おめでとう」と声をかけたり夕飯のときに感想を言い合ったり、それが自分にとっての幸せ。なので、双方向のコミュニケーションがとれなくなったときが自分の死に時だと思っている。あくまで自分だけの価値観であり、他の方々の生き方にとやかく意見するつもりは全くないことをここで付け加えておきたい。
これから
最後に、これからのことを記しておきたい。このnoteは自分がどうにかこうにか海外での安楽死までたどり着く過程を、自分が生きた証として残したいと思い立って始めた。たどりつけない可能性もあるので家族にはまだ内緒だが、ある程度症状が進行して動けなくなって来たら妻にそっと伝えたいと思う。もし勇気がなくて伝えそびれたとしても、それはそれでいい。大人になった子供達も読むかもしれないからへたなことは書けないけれど、なるべく包み隠さずに記録したい。もしかしたら、私と同じようにALSで苦しむ誰かの助けになるかもしれないから。とてもクリエイティブなコンテンツとは言えないので読者のみなさまにはご容赦いただきたい。珍しい病気だしその中で安楽死を目指す人もさらに珍しいので、多少の貴重価値はあるだろう。少しでも長い間書き続けられるよう、みなさまからの暖かいサポートをいただけると幸いです。
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