少しそっとしておこう
拙著から引用する。
時期によっては希死念慮まみれだった私を、やさしくて、真っすぐな言葉で救ってくれたのは、パートナーだ。もちろん友人・知人たちの存在も大きい(私は友人・知人が多いマウントを取りたいわけではない。私は私で、アルプラゾラム片手に、狭い範囲ではあるが、自分からアクションを起こしてきた)。
これから先、すごくしんどいことがあっても、私はきっとこう思うだろう。「あなたが掬って、救ってくれた命を無駄になんて、できないじゃない」と。いろいろと葛藤はするだろうけど。
拙著最新作の感想はリトマス試験紙みたいなもので。私の推測でしかないが、「自殺・自死を考える人の気がしれない」という価値観をもっている人は、拙著に対する感想を何も言わないか、極めて薄いリアクションをとっている(買ったけれど、読んでいないパターンが案外あることは学習済み)。私が勝手に失望するのは自由。いろいろなしんどさを抱えている人が、気にせず吐き出せる場所を設けられたらよいなと考えている。長いようで、短いのかもしれない我が人生の中で。
東京で暮らす私の両親のうち、父親が単独でこの町に戻ってきた。少し用事があって、自分が24年前に買って、今もこどもを住まわせている、このマンションに。週明けにはまた東京に戻る父親とは「自分が死んだ後のお墓」についていろいろ話した。残される人たちに負担をかけたくないこと、こどもたちが結婚をしないのであれば、親戚に託すか、それとも、みたいな話。
「日本国を支える若者の人口が減っているのは問題だ」と口にする、保守的な考えが根底にある父親と向き合っていると、今のパートナーがシングルマザーであること、結婚もこどもを授かることも今は全く考えられないことを言えないのが、少しつらい。「結婚しても、こどもを授かるとは限らないけどね」と私が言うと、「それはそう」と返す父親は、良くも悪くも私の人格形成で最も影響を及ぼした人だ。暴君だった父親の前に、自分から座って、父親が我が子に語りたいことを引き出そうとしている私は、やはり少しずつ変化しているのだろう。
パートナーは風邪をひいたらしい。がむしゃらに仕事をがんばっていたら、抵抗力も落ちるだろう。風邪をひいたかもという報告とともに、「仕事をがんばりたい。だからごめん。少しそっとしておいてね」という言葉が届いた。それに対して、「私は割とそっとしておいているよ、あなたを」とやさしく、心の中でツッコミつつ、「少しそっとしておいたらよいのか。オーケー、わかった」と少し安心している私がいる。少し先の未来に、たぶん私は映っているのだろうな。そう思うことにする。
再び拙著からの引用。
ゆーーーーーーーっくり、しーーーーーーーっかり、ですなぁ。私だったら、しんどいときに見捨てずにいてほしいよ。そりゃあ、ね。
この投稿を見ている友人と歩きながらしゃべっていて、「パートナーが前に私に言ってくれた『好きですよ』という気持ち、今どれだけパートナーに残っているかなぁ」とこぼしたら、横断歩道上で盛大に吹き出されて、改めて自分で何言っているんだろうと思った。恥ずかしかったなぁ。「この人、本当にパートナーのことが好きなんだな」と思ってもらえればよき。