好きは好きでも嫌いも好き
時々落語を聴きにいく。お目当ての噺家さんの独演会や二人会などに足を運ぶのは楽しい。それとは別に寄席にいくのも楽しみだ。寄席は3、4時間続き、前座さんから二ツ目さん、マジックや紙切りなどの色物をちょいちょいと挟んで真打と言われるお師匠さん。破格の木戸銭でフルコースで堪能できる。若い前座、二ツ目の皆さんは応援したくなり、好みはあっても真打のお師匠さんたちの落語はやはり流石で、落語風に言えば「いい心持ち」になって1日を終えることができる。
かつてひょんなことから知り合った前座さんから、知られざる前座の世界を聞いた。お師匠さんにもよるのだろうが、前座の生活はそれはもう過酷そうだ。お師匠さんの身の回りの世話や家族の用事、お茶出しや出囃子・地囃子をはじめとする寄席の手伝い。その割に「大して芸は教えてもらえない」人も多くいるらしい。芸を盗む暇もないと笑っていた。給料らしい給料も出ず、それでも決めたお師匠さんに付いてその道を進むのだ。
どうしてそんな大変なことを何年も続けられるのかと尋ねたところ、まあ好きだからですねと返された。あまりにシンプルな回答だが一刀両断された気分だ。私がなぜ今の仕事をしているのかと聞かれたら、きっと好きだからとは答えられない。
かつて好きな業界で働いても(その世界は今でも好きだが)仕事が好きだったかというと疑わしい。少し大人になって「好きなことを仕事にすると苦しい」とわかったような風を言ってみたこともあったが、自分の仕事が好きだと言う人がやっぱり最強だ。強い光が放たれている。
きっと彼の「好き」は、盲目的に対象を全肯定をする若い恋のようなものではなくて、いいところはいい、嫌いなところは嫌い、苦しいことは苦しい、嫌な奴もいる、嫌な客もいる、でも楽しい、嬉しいこともある、それらひっくるめた「好き」なのだろう。そしてそんな「好き」と言えるためには、一度全てをそのまま受容する工程と、自分がそこから何を得たいのかという自覚が必要なはずだ。
それに比べて私の職業人生はなんとふんわりとしているのだろうか。私は自分の仕事を、仕事ではない何か別の「好き」のための犠牲と思っているふしもあるかもしれない。そういう人は世間にきっと多いと思うけれども、好きなことに全力をこめてこの一本道を歩きますってえと、よい心持ちだよおめえさん。あー、江戸言葉が書けるようになりたい。