愛と孤独の分かれ目は、ぜんぶ親のせいだ
新年の初映画鑑賞は
「ライオンキング:ムファサ」
昨年劇団四季を観てからというもの、
私の中でライオンキングが熱い!
そして見れば見るほど
親との関係を省みる
「親ワーク」視点が相まって
ものすごい気づきを得てしまった!
(映画のネタバレしないように書いてるよ)
人を信頼できないのはぜんぶ親のせいだ
「ライオンキング:ムファサ」は
2匹の雄ライオンの話なんだけど。
2匹が主人公になり周りに愛されるか、
悪役になり孤独に生きるかの分かれ目は
【周りを仲間認定するか敵認定するか】の違い。
主人公の親は仲間との向き合い方を教えていて、
悪役の親は敵をどう欺くかを教えている。
つまり、
周りを信頼できないのは私のせいじゃない。
ぜんぶ親のせいだ。
私の中の悪はぜんぶ親のせいだ
祈祷師のマンドリル曰く、
大切なのは
「何者であったか」ではなく「何者に成るか」
そこに出生や血筋は関係ないと。
素敵な考え方だとは思うけど…。
でもその考え方って
あまりに清廉潔白すぎて、
映画のストーリーとしては観られるけど
人の人生には即していない気がする…。
一方で悪役の
恐怖と葛藤、
羨望と嫉妬、
絶望と諦め。
そんな人間臭さにこそ
思わず感情移入してしまう。
「悪」と一言で片付けてしまえば
それまでだけど。
善悪の基準なんて
人や主観や時代によっていくらでも変わるし。
一方から見れば悪でも
一方から見れば仕方のないことだったりする。
善も悪も白黒付けられないのは、
人の人生と似ているなぁ…と思いを馳せる。
「環境が人生を変える」
なんて使い古された言葉があるけど。
それっていい環境にいれば
善良な人間に成れるけど、
悪い環境にいたら
極悪な人間にも成れるってことでしょ。
生まれてくる環境は自分じゃ選べない。
私の生育環境を準備したのは親。
私が善人になるか悪人になるかは
全部親のせいだ。
私の人生がクソなのはぜんぶ親のせいだ
悪いのは私じゃない!!
悪いのはぜんぶ親だった!!と
いったん責任の所在を親にぶん投げること。
コレ、大事。
「でも親は私によくしてくれたこともあるし…」
「でも親だから悪く言っちゃいけないし…」
「でもなんだかんだ愛されてたし…」
とかって親に忖度し出すと
【悪いのは全部自分だった】ってなるから。
まさに私がそうだったんだけど、
「人生はぜんぶ〝自分次第〟」を
「人生はぜんぶ〝自分のせい〟」
に変換してしまって
親ワークの核に辿り着くのに
だいぶ遠回りしてしまった。
ナリ心理学のナリくんに会った時、
「ロマちゃんの親はクソだよ」と言われて
子供みたいにわんわん泣いてしまった。
まるで憑き物が落ちたようだった。
自分責めして苦しくなるくらいなら
親を責めたらいい。
どうせ親のせいだし。
いったん自分の心の底の底にある
毒を出しきってからじゃないと、
なんにも始まらないから!
人から愛されるとか
人を愛するとか
ましてや自分自身を愛せるようになるには、
自分の中にある腐ったヘドロを
掻き出し切った人だけが辿り着ける境地。
全部親に責任転嫁した人だけが、
親ワークのスタートラインに立てる。
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