「コスパ」とかいう言葉が便利だけど嫌いだという話
「コストパフォーマンス」というのが最近では大事にされているらしい。
得られた効能を払った対価で除することで得られる数値…のようなものである。
この言葉は確かに便利である。だが俺はこの言葉が嫌いだ。
何故なら、「コスパ」という言葉を使うのは、大多数が「コスパを良くすることが目的」であるかのように考えているように見受けられるからである。
日本酒をよく嗜む人間であるが、720mlで1500円の日本酒と、6000円の日本酒から得られる効能が全く同じなのであれば、俺とて1500円の日本酒を買うだろう。
実際、俺は2200円(甲子アップルの税抜き価格である)を超える日本酒は基本的に自分では買わない。
それは、それ以上は「売り手が美味さを担保しているから」である。
食事や飲酒に求める「良さ」という部分に含まれるのは、「美味しさ」だけではない。
「自分しか好まない故の安さ」というものがオタク的な、逆張りの喜びとして付随するのである。
戦後間もなく、牛タンという部位はアメリカ人が食べないから捨てる部位であった。つまり、タダである。
それを拾ってきて商売をしたのが仙台人だ。今や、牛タンは庶民的な焼き肉店の目玉の一つとなっている。
そういった、「需要が少ないから安いが、俺は好きだ」という部分が、モノの評価に少なからず絡んでくるのだ。
そうすると、結果的にコスパは上がる。そう、コスパとは「結果」なのである。
しかしこの世でコスパという言葉を使う奴は、それがあたかも至上目的のように語るやつばかりだ。「目的」なのだ。
結果と目的の混同。これが「コスパ」という言葉に対する気持ち悪さの正体であると俺は考える。
乱文失礼。