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「ギターは魔法の木」—ひとつの雑感

「ギターはその音一発で、ばらばらになっている人の心をひとつにする魔法の木」

   どなたによるものか覚えていないが、こんな内容の発言であったと思う。なるほどなあと思ってしまった。たしかにギターには、人の心を虜にする摩訶不思議ななにものかがある。いわゆるsomething elseというやつである。ビートルズの「デイ・トリッパー」やジョニー・サンダースの「ボーン・トゥ・ルーズ」の出だしの、あの音が鳴った瞬間、散らかった頭の中が一気にそこに引き込まれ、高揚するあの感じ。まだ小学生であったころ、レコードやラジオでギターの音が聞こえてくるたびに、写真を見るたびに、6本の弦をどういじれば、あの音が飛び出してくるんだと不思議でならなかった。「所詮は木の塊」とのたまう人もいるが、その木の塊が、人を高揚させ、ああだこうだと論議を巻き起こし、専門の雑誌まで公刊されるのだ。あまたの人を虜にする・・・・。たしかに魔法の木、なのだろう。そして「魔法の木」を使いこなす者は魔法使い、としていいのかもしれない。
 だが「魔法の木」を持っていても、かならずしも魔法使いになれるわけではない。「魔法の木」は、その魔力を引き出すだけの力を持つ者にのみ、おのが魔力を授けてくれるのであって、力を持たざる者の多くにとっては、木の塊のままなのであろう。木の塊と魔法の木、どちらになるのか。この両者を分けるのは、ひとえにそれを持つ人次第なのである。この世にあるすべてのギターが「魔法の木」になってしまったら、魔法の希少価値がなくなってしまう。魔法なんていうものは、そうそうはお目にかかれないから畏怖の念―または恐怖の念―をもって遇されるのであるから。冒頭に掲げたどなたかの発言には、「でもその魔法をかけることのできるのは、選ばれし民である」という文言が付加されるべきなのだろう。「魔法の木」はその使い手を選ぶとも言い換えていい。
 ここまで記してみて、ギターの値段の高さも、使い手を選ぶことにつながっているのではないかと気づいた。誰もが気楽に手に入れられる値段ではないからである。まれに楽器屋のサイトをのぞいてみると、廉価版のギターでも3万円台とか4万円台とかの値段がついている。安いよというなかれ。明日の飯代にも事欠く奴、1か月に2万とかの小遣いでやりくりしているリーマン諸氏にはため息ものの金額であろう。それでも手に入れたいという情熱ある―または酔狂な―者にだけ、ギターは「魔法」を手に入れるための旅券を与えるのだろう。旅券を途中でなくしてしまう者が大半なのかもしれないが。
 さて、私に即していうと、当然だが「魔法の木」の使い手であったことは一度もない。だが今目の前にあるのはただの「木の塊」でもない。はたから見ればまともな音を発することもできないおんぼろの彼ではあるが、それでも木の塊に墜することを断じて拒んでいるその姿がある。そうすると私の目の前の彼はどう形容すべきなのだろう。「魔法の木」でもなければ「木の塊」でもないとすると・・・・、さてどうすべきか、と下らぬ思考に数語を費やして、結局答えは出ないままなのであった。してみると身もふたもないのだが、ここは単純に「ギター」とするしかないのだろう。