奴も馬鹿じゃないさ・・・・ザ・ダムド「See Her Tonite」
この1か月余り、ほぼ毎日ダムドの1stを聴いている。これほどこのアルバムをリピートするのは何十年ぶり(!?)であろうか。あらためて、名作であると思う。ケーキぶっつけの写真、制作陣の名前を冠した箇所には、「誰にも謝意は表しない」とあり、そっと端っこには、「小さい音量でもうるさく聴こえるようにつくりました」という文言。そして楽曲、音。品行方正な方々が眉を顰めるであろうこの感覚。しかしだ。これをユーモア感覚として、一緒に笑ってこそ楽しいというわけだ。そう、楽しんだ方が断然楽しいし、気も楽だ。個人的には『マシン・ガン・エチケット』が一番完成度の高いアルバムだと思っているが、パンクの歴史における重要度という点では1stを挙げなければならないだろう。
さて、このアルバム。いや、ダムドというバンドの楽曲。彼らの場合、その斜に構えたユーモアとか、ことに初期の、ユーモアと激烈なロックンロールを融合させたとか、そのての話題ばかりが出る。もちろん、それは正しいと思う。けれど、そればかりではないのだろうな、と思ってつらつら歌詞を読んでいると、あるのだ、突っ込みどころが。
ダムドの歌詞は、いわゆるクラッシュやジャムのような社会的なメッセージ性に乏しいとされているせいか、ろくすっぽ議論されない。私の知る限り、歌詞の内容にきちんと言及された方は行川和彦氏くらいではなかろうか。その点が私には不満なのだ。英語に詳しい方で、どなたかダムドの歌詞を語っていただけないだろうか・・・・いやいや、私は無理だぜ?と思いつつ、誰も語ろうとしないゆえ、歌詞カードと辞書を交互に見やり、ちょっとした考察としゃれこむのである。今回俎上にあげるのは「シー・ハー・トゥナイト」である。しかし、タイトル表記・・・・よく見ると、英語のスペルが間違えている。tonightが正しいのに、toniteなのだ。わざとそうしたのか、たまたまそうなって、訂正がめんどくさいからそのままにしているのか。どこか笑えるこのセンスがいいのだ。
She’s no so clear, she’s got nothing to say
It don’t happen at all, it’s not her day
She don’t like art and plastic’s a con
She can’t stand fools who think
It’s right to be wrong
She’s so cool, see her tonight
She’s no fool, see her tonight
She don’t fit in any so called scene
So don’t like going where she’s already been
Afraid rock’n’roll’s gonna end up like art
She don’t like ending what she can’t even start
以下、勝手に解釈してみるとこうなった。
「あいつ冴えないな、なんにも言いたがらない
しょげちまって、今日はダメなんだって。
アートなんてうざい、マガイもんをつかまされるから、ときて
馬鹿な奴につき合うつもりもないときた。
気にしないさ、へまっても
あいつはクールさ、だから今夜会いに行くんだよ
あいつは馬鹿じゃない、だから今夜会いに行きたいんだ
あいつにはトレンドはどうでもいい話で
あそこはもう知ってる、たくさんだよって。
ロックンロールがアートなんてまっぴら
始まってもいないうちに、うだうだほざくなってさ」
さて、ちょっと妄想を膨らましてみよう。時代は70年代中期のイギリスである。不況の真っただ中である。いい仕事がない。給料も安い。頭でっかちな音楽ばかり。その70年代イギリスに住む女を、ちょっと距離を置いて語る歌なのだ。女はふさぎこんでいる。仕事でもプライベートでも、うんざりしてばかりなのだろう。アートもロックもてんでつまらない。これだというものなんて全くない。まがい物ばかりだ。ロックが高尚な芸術だって?うぜえよそんなのってな感じだ。でも周りの奴等―自分よりも年いってる連中だ、奴等はそんなろくでもないアートやロックにうつつを抜かしている。あいつらも馬鹿じゃないの?でも、男が言うのだ。これから新しいこと(パンク)をやるのさ。失敗するかもしれないが、やらないよりはいい。あの女は今の世の中がクソだってよくわかっている、迎合しようとしていない、いわば「俺らの側」の人間だ。だから会いたい、一緒に楽しもうと言うのである。彼女がクールで聡明なのは、最後の「始まってもいないで~」のフレーズでも判る。まだ何も知っていないのに、ウダウダ言うのは愚かだ。パンクの時代はこれからだっていうわけだ。女はしかし、まだ古い世界から完全に足を洗ったわけでない。古い世界(のロックやアート)に僅かばかり未練がある。だからこそ、男は「失敗しても、大丈夫だ。ボッチじゃないんだから」と、そして、今へまっていても、最後に笑うのは俺たちだと言うのである。
どうであろうか。私の勝手な解釈に、異論も出るだろう。異論が出てもちっとも構わない。この歌詞はとても抽象的だ。だからいかようにも解釈できる。かつてラット・スケイビーズは「俺たちは抽象的な歌を歌う方を選んだ。その方がインパクトがある」と語っていた(出典はどこだか忘れた)。そして、抽象的だからこそ、時を経ても、歌詞の鮮度は落ちないのだ。時代とリンクしながらも、それを飛び越えてくる。優れた歌とは、そういうものであろう。それにしても、ブライアン・ジェイムスのソングライティングの巧みさよ。彼が辞めてからもダムドは多くの名曲を世に出したが、残りのメンツはブライアンからソングライティングのコツを相当学んだと思う。
ダムドの1stは、1枚のアルバムとして常に注目されているけれども、個々の曲について話題になるのは圧倒的に「ニュー・ローズ」であり「ニート・ニート・ニート」ばかりだろう。シングルとしても発売されたから当然なのだろうが、もっと個々の曲を云々してもよさそうなものだと思ってきた。「シー・ハー・トゥナイト」もその1曲であった。ダムドの連中自身が積極的にライヴで取り上げなかったのも、省みられなかった要因の1つではあったろう。それが(私の中で)にわかに脚光を浴びるようになったのが、88年(正確にはヴィデオで観た89年だったが)オリジナル・ダムドが最初に(!)再結成されたとき、その一発目に演奏したのが「シー・ハー・トゥナイト」だったのである。あの時は意外な曲をやったもんだと驚いた。もっと派手目な、例えば「アイ・フィール・オールライト」―2022年の時には1発目であった―のほうが妥当ではなかったかとも思ったこともある。しかし今は、あの88年のライヴは、「シー・ハー・トゥナイト」で正解であった、と思う。歌詞の内容、その空間を引き裂くような疾走感・・・・。まあいい加減なことをほざいているが、私は「かっけー」と興奮し、テープが擦り切れるまで観たのであった。
88年当時と今を比べると、キャプテンは今の方が若いのではないだろうか。体型も今の方がスリムだ。一方のブライアンもスリムになったが、それ以上に老け込んでしまった。ギターが鋭さを保っているのはうれしかったけれど。普通に考えればブライアンの方がまっとう(?)かもしれぬと思ったりもする。なにせあれから35年。結成してからなら47年だ。否応なく人は老いる。それを否定的に捉えるのはいけないことなのであろう。時間を重ねないとわからないもの、見えてこないものはある。ダムドの連中だってこうやってゴタゴタしながらもやってきたからこそ、再びオリジナル・メンバーが集まったのだ。それを素直にこちらは喜び楽しめばよい。何度も言うが、その方が楽しい。
2022年の再結成時の映像。本来ロックは楽しむものだという当たり前な態度で臨めば、これだってOKなのだ。しかしデイヴとキャプテン。元気だ。
べただが、これも。やはり文句なし。