爆砕
激しい雷雨の夜である。
荒涼とした荒れ野に、二人の偉丈夫が風雨を全身に浴びながら対峙していた。時折輝く雷だけが二人を照らす様を、一人の少年が固唾を飲んで見守っている。
空手着の男が声を上げた。
「貴様が穿山拳の李烈鈞か。俺は日本から来たツカモトだ。俺の空手でお前を負かしてやる!」
ツカモトはそこまで言うともう一人の男――中国胴着の老人に蹴りかかった。
「空手など。所詮カンフーの紛い物に過ぎん」
ツカモトの蹴りを捌きながら李と呼ばれた老人が答える。
ツカモトの顎に伸びる李の掌をツカモトの拳が弾き、ツカモトの肘が鳩尾を狙うのを李の膝が飛ばす。
まるで図ったかの様な高速の攻防が続いたが、李の胸にめり込むツカモトの掌がその均衡を打ち破った。
李の唇から低い呻きが漏れる。
「師父!」
これまで息も忘れて戦いを見守っていた少年が師の下に駆け寄ろうとする。
しかし、李は素早くツカモトとの間合いを離すと、一睨みで少年の行動を制した。
少年の足が竦み、表情が強張る。李は視線をツカモトに向けたまま叫ぶ。
「毛(マオ)!日本人ごときに穿山拳が負けると思うのか!」
「師父!穿山拳は負けません!」
少年、毛は間髪置くことなく答えた。
そこに、ツカモトの哄笑が届く。
ツカモトの顔には、牙を剥いた狼の笑み。
「大した師弟愛だ。李烈鈞よ、穿山拳には拳を岩の硬さにする奥義があると聞いた。いいか?その技を俺に仕掛けてみろ。おい、小僧!穴を掘っておけ!お前の師匠を埋める穴だ」
ツカモトは空手着を脱いで上半身を曝け出し、腕を大きく広げて挑発する。
李もまた残虐に笑った。この日本人は穿山拳を嘗めきっている。
「山」を「穿つ」「拳」、それこそが穿山拳奥義である。
李が拳を固めた。するとどうか、その拳が見る間に変色し、まるで岩石の様な茶色と化したではないか。
一歩ずつツカモトに歩み寄る。ツカモトは腕を広げたまま動かない。
「阿!」
大きく振りかぶった腕を李はツカモトの胸に叩きつけた。
李も、そして毛も、穿山拳の勝利を確信した。
だが。
ツカモトの凶暴な笑顔は消えていない。
その笑みを見た瞬間、毛の心臓を氷が撫でた。
びしぃ。
まるで氷柱が割れるような音が響いた。
何という事か。岩の固さとなった李の拳に、一筋の亀裂が走っていた。
ツカモトは歪んだ唇を更に吊り上げて言った。
「空手の奥義だ。全身を鉄の硬さにできる。岩が鉄を砕けると思うか?単純な科学だ」
びし、びし、びし。亀裂は枝分かれし、増えつづけ、そして。
天下無双として中国全土に知れ渡った”穿山公”李烈鈞の拳は粉々に砕け散った。声にならない悲鳴が、老拳士の腹から響く。毛は瞬きすらも出来ない。
腕を押さえて苦しむ李の側頭部に、無常にもツカモトの回し蹴りが打ち込まれた。
「師父!!」
その場に崩れ落ちた李を、駆け寄った毛が抱きかかえる。
「は、は、は!李烈鈞、お前は弱かった!小僧、穴を掘っておけと言っただろう、は、は、は!」
ツカモトは嘆く若弟子を見下し、吐き捨てながら立ち去っていく。
泣きじゃくる毛の腕を、瀕死の李の左手が掴んだ。
「仇を取れ」
李は息も絶え絶えに毛に語りかける。
「ですが、師父も勝てない相手に私などが……」
「毛、お前の素質は私を遥かに超える。竜山寺に行け……穿山拳には儂も修められなんだ奥義が……」
李の首が垂れた。
「師父!?師父!?師父ーっ!!」
風雨は弱まる事無く、二人を打ち続けた。
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「阿阿阿阿阿阿阿!」
毛は跳ね起きた。十年前のあの夜の夢。あれから一日たりともあの悪夢を見ぬ夜は無かった。
それも今日までだ――毛はこの十年の修行を思い出す。
芳烈寺七木人との死闘、弧蘭寺二十四銅人との決戦、片腕のギロチン使いとの血闘。
そして竜山寺に眠っていた、穿山拳、真の奥義。
すべてが毛の糧となっていた。
功は成った。復讐の時は来たのだ。
その日の正午、広州。
ツカモトは今や中国全土の名だたる武術家を屠り、広州に於いて数千の門下を誇る空手道場を開いている。
その道場の中心で、数千の門下生を観衆に、ツカモトと穿山拳は再び対峙していた。
ツカモトは他流の挑戦を受けない。彼は一方的に襲い、奪う者だからだ。
だが、突然現れた男に、47人の高弟を瞬く間に倒されてはその挑戦を逃げる訳にはいかなかった。
「そうか、今思い出したぞ。十年前のあの小僧か。師匠の仇討ちだな」
毛は答えない。ツカモトの足刀が飛んだ。
その後の攻防を目視できたのは道場の何人か。
脚を腕が落とし、肘を膝が弾く。蹴りを投げ、投げを殴り、掌を流す掌が脚を狙い、蹴りと蹴りが打ち合う。
毛の直突きが、ツカモトの胸を打った。
そしてツカモトの顔には、十年前と同じ笑みが浮かんだ。
「は、は、は。十年間、何も学んでいないのか。岩に鉄は砕けん。中国人は愚かだ!お前も師と同じように殺してやる、俺の殺人空手でな!」
ツカモトの竜巻回し蹴りが唸る。その時だ。毛は柳の様な体捌きで蹴りを交わし、ツカモトの懐に潜りこむ。
そう。岩に鉄は砕けない。しかし。
中天。海手。三鞭。臂已。虎道。
毛の指はまるでムチのようにしなやかに。そして、「水滴」の様に確実にツカモトの胸の五点の命脈を打った。
穿山拳の真の奥義。それは岩と化す拳ではない。
真に山を穿つのは、水滴の確実さである。
ツカモトの動きが止まる。笑みが消えた。
「小僧、今の技は……なんだ?」
伍
「五点掌爆心拳(The-5-Point-Palm-Exploding-Heart-Technique)、後五秒でお前の心臓は爆ぜる」
四
「……それが、中国人の、意地という奴か…」
ツカモトの口角から、血の筋が垂れる。
三
門下生が一斉に身構えた。
「こいつに、手を出す事は、俺が許さんッ!」
ツカモトが吼えた。気圧される門下生達。
ニ
毛の顔に、涙が流れる。
「……師の、仇だ」
「そうだ、そうだとも。なあ、お前の名を、穿山拳を極めた男の名を、教えてくれ」
一
「毛、毛…沢東」
爆砕
倒れこむツカモトを抱きとめ、その亡骸を門下生に渡すと、毛は道場を後にした。
1914年の事である。
――後の中国史において、
日中戦争、国共内戦、そして文化大革命等の様々な状況で、反毛沢東派の要人の大半が変死を遂げている事、また、その死因の殆どが原因不明の心臓破裂である事、そして大半の場合、彼らの死の直前に毛沢東本人が目撃されている事などは、ソウル在住の考証史家、黄算哲(ホアンサンチョル)氏を初め、多くの歴史家の認める所である。
しかし2018年現在もなお、中国共産党指導部は毛沢東と五点掌爆心拳の関係に対して、一切の見解を公表していない――
劇終
(おわりです)