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ありがとう

『お父さんにお手紙を書く』
夢リスト100個中に入ってる一つです。

息をするのも苦しそうなお父さん見て
「あまり無理しないでね」
そう言葉に出したのか、心の中で思ったのか、それが私が覚えてる最後にお父さんに投げかけた思いでした。

まだまだ働き盛りだった50代に
脳梗塞発症しました。

手が痺れる、と自己診断で検査入院したのは
シンガポール赴任中事でした。
検査とはいえ、入院です。
連絡を受けて、当時付き合ってた彼に病院まで送ってもらい、初めて病床に横たわるお父さんの姿を見た時、今まで偉大に見えていたお父さんがとても小さく見えました。
私はお父さん子では無かったと思いますが、お父さんが末っ子の父親似な私をとっても可愛がってくれていた事には自信を持っていました。
小さなお父さんを見た瞬間、精神的に脆い私は直ぐに涙腺崩壊です。
まともにお父さんと会話も出来ず、逃げるように病室を出てしまったと記憶してます。

...もう少しでも私が強かったら、お父さんと笑顔で向き合えたのにな。


数年後、任期を終えて帰国する両親と入れ替わりで、ビザ問題もあって一足先に帰国していた私はシンガポールでの就職先を見つけて、1人シンガポールに住む事になりました。

更に数年がたった頃、お母さんとゴルフ⛳️に出かけてた最中、お父さんは脳梗塞を発症しました。
会話が出来ない。
意思疎通が出来てないように見える。
不安になったお母さんが救急車を呼び、確か静岡だったと思いますが、お父さんは2度目の入院をしました。
今度は検査入院ではなく。


家族全員が不安に包まれていたと思います。
お父さんは家族の中でも絶対的で、威厳のある存在だったからです。
一家の大黒柱(金銭面だけでなく)が揺らぐかもしれない...この先どうなるんだろう!?
そんな不安を誰よりも深く抱えていたのは、勿論お父さんだったと思います。


少しづつ病気が進行していく中で、
私がお父さんに出来る事は甘える事かなぁと思いました。
末っ子らしく、いつまでもお父さんに甘える。
それがお父さんにとっては嬉しいんじゃないか??というか、それくらいしか出来る事が無かったんです。


母はナイチンゲールではないか??という程、献身的にお父さんの看護に全力で向き合って居ました。在宅介護を望み、お父さん中心の生活を送っていました。
姉は看護師という職業を活かして、出来ない事が増えていくお父さんとも上手に接していました。
兄は男性同士の距離があったのでしょうか。
当たり障りなし...といった感じでしたが、若い頃に孫を持たせてくれたり、独立して自分のお店を持つという形でお父さんを喜ばせていました。
私は...仕事や恋を言い訳に、シンガポールに残り、お父さんとの距離を取るようにしてたように思います。
時々帰る分には明るく、優しく、能天気な末っ子で居られましたが、だんだんと思い通りには動けなくなっていくお父さんを間近で見守る強さが、この期に及んでも持てなかったんです。


お父さん寝たきりになったのは亡くなる6、7年前かな。
私がシンガポールで長年付き合った彼と別れた。という報告をした時、『どちらから言ったんだ?』と聞かれたのを覚えています。
別れを言い出したのは私だ、と伝えると安心した...これは恐らく国際電話での会話だったはずですが、お父さんが安心してくれた空気が記憶に残っています。
そして恋愛を理由には帰国しない!という意地を張っていたのも、今思うと帰国したからと言って何をすれば良いのか皆目検討が付かなかったんだと思います。


2011年3月11日、東北の大震災を機に、今後の自分を少しづつ考え始めていた頃、
お父さんはほぼ寝たきりで、会話もままならない程になって居ました。
そして祖母の癌、余命わずかという告知を聞いて、私はシンガポールを去りました。
キッカケが欲しかったんだと思います。

2011年の9月に帰国した私は
ご縁あって、2012年の2月に旦那さんと付き合うようになり、半年後には結婚する運びとなりました。
お父さんは旦那さんの事を認識してたかな?
私の顔を見ると時々泣きそうになってた。
でも旦那さんを見ても『無』だったような...


結婚式もお父さん出れるかも!!という前提で、バリアフリーだったり、車で行ける距離を選んだけど、願いは叶わず、むしろお父さんを病院に入院させしまったね。
ごめんね...。


病気のお父さんと向き合えない自分を認めたく無くて、いつも適当に誤魔化してた。


最後には『もう無理しないで』なんて思ってしまったから、私がハワイに移住した数日後にお父さんは逝ってしまったのかな。
それまで半年くらい、ビザを待ってた私は実家に帰って、もう喋る事も動く事も出来なくなったお父さんと一緒に居たのにね。
私のいない所で、弱い私が辛い場面に居合わせなくて良いように、離れたタイミングを見計らったのかな。


かれこれ7年前の事。


お父さん、今は身体も軽くなって、大好きな人の側で、ゴルフ⛳️もウィスキーも楽しんで居ますか?

成績はいつも1とか2で、勉強が根本的に分からない!!と、手の付けようが無いほど、知能に欠けていた私です。
その中でも英語なんてサッパリで
『りんご』が『Apple』に変わる方程式とか無いの??って考えてたくらいです。
外人恐怖症で、いくら日本語で話しかけられても、見た目が外人さんだとアウト。何も話せなくなってました。
弱い自分を隠すように、突っ張って私を
お父さんがシンガポールに引っ張り出してくれた事で、私の人生は本当に大きなターニングポイントを迎えました。


言葉が通じなくたって、生きていける。
理解出来なくても、笑顔で居れば大抵の事はなんとかなる。
人と繋がる素晴らしさ。


今、私が持っていて、本当に幸せと思えるモノは、全てお父さんが私を連れ出してくれたから。


あの時、あのまま日本に居たら...と考えるとゾッとします。
広い世界に目を向ける事もなく、狭い世界観の中で、自分はきっと特別な何者かだ!!
と威張って、格好付けて、周りと比べながら、勝ち負けを気にするような人生を送ってしまっていたかもしれない...ゾゾゾ😱


お父さん、今ここにある全ての幸せも
これから手にする夢や目標も
お父さんが私にキッカケを与えてくれた事で生み出せたし、目指す事も出来た事です。


生前に、お父さんの意識があるうちに、
面と向かって伝えられなかったのは、私が未熟だったからと、少しの後悔です。
お父さんの身体の温もりは思い出せないけど、お父さんのくれた愛情は常に私の心にあります。
暖かく私を守ってくれています。


言葉では伝えられなかったけど
本当にありがとう✨
私のお父さんで居てくれて、
本当にありがとう✨
お父さんが私をキラキラ光る輝く人生へと導いてくれました✨

私も、このキラキラ輝きを世の中の人々に与えられる存在になれるよう、これからも精進していきます。


それがお父さんへの恩返しに出来ると信じています✨


I love you from core of my heart🫧

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