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SNSフェミニズムが女性差別に陥ってしまう「罠」

いま、「本来であれば女性差別を解消すると思われたフェミニズムはかえって女性差別的だ」という声が猛烈にあがっている。

実在する巨乳の女性の広告を「性的消費だ」と言う声や、女性記号の表象である萌え絵を批判する声、そんなフェミニズムの声を聞いた覚えのある方がほとんどではなかろうか。

「生まれ持った女性の身体を称賛して仕事にすることの何が悪い」と、フェミニズムに向けてバックラッシュを起こす女性もちらほら見かけるようになった。

しかし、声を上げた彼女らに送られるフェミニストからの言葉は「名誉男性」「女性差別の助長をする女性」というものである。

本来であれば女性差別を解消するはずのフェミニズムが何故そのような言葉をかけるのか、フェミニズム運動におけるその「罠」の本質を、丁寧に見ていこうと思う。そして「名誉男性」「女性差別を助長する女性」というフェミニズムにおける女性侮蔑を批判するような、もう一つのフェミニズム党派が存在するという事実を、しっかりと見届けて欲しい。

これはフェミニズムの内部批判を左派的慣習から論じたものであり、フェミニズム的な論述の組み立てである。しかしながら筆者であるうーたゃがこうした「フェミニズム的正しさ」や「フェミニズム的価値観」を全面的に支持しているかは別枠だと捉えてほしい。あくまで「フェミニズムの系譜や正統性とは何か」を述べるものである。

結論から言ってしまうと、フェミニズムによって行われてきた女性差別を批判するフェミニズムというのは「ポスト構造主義フェミニズム」である。

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「交差性」「一人一派」このような単語を耳にしたことのある界隈の人間も多いのではないか。これは、ポスト構造主義フェミニズムから作り出された概念である。謎の多い「ポスト構造主義フェミニズム」について、ゆっくり紐解いていこう。

ここでは運動でのポスト構造主義フェミニズムについて述べていく。更にアカデミー(学問の場)レベルで語られているようなポスト構造主義フェミニズムについては、記事の後半に掲載した。興味があったり込み入った話が知りたい方は是非アクセスしてほしい。

ポスト構造主義フェミニズム運動と非西洋

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運動としてのポスト構造主義フェミニストは、西洋中心主義のフェミニズムを批判的にみる。従来のフェミニズムは西洋近代思想の中で発展していった。しかしそれに対して

•非西洋(第三世界)
•脱異性愛中心主義(セクシュアルマイノリティ運動)
•脱白人至上主義(ブラックフェミニズムやアジアンフェミニズム)

などという「多様性」を軸に活動してきたのが、ポスト構造主義フェミニストの先駆けである。

「交差性」とはこの多様性のなか生まれた言葉である。別名インターセクショナリティとも呼ばれる。ジェンダー、セックス、障害の有無、人種、国籍、性的指向、社会階層…さまざまなアイデンティティを持つのが個人であり、「女性と言えどもひとくくりに語れない」という意味だ。

「男と女がいるとき、権力を持って語られるのは男である。白人と黒人がいるとき、権力を持って語られるのは白人である。であるとするならば、黒人女性はどう自分の苦境や差別を語ればいいのか。」

そうした複合差別論から生じたのが交差性であり、その発展として「一人一派」という言葉が生まれた。

アイデンティティ政治の限界

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この一人一派という言葉は「アイデンティティ政治の限界」というキーワードを無くして語れない。それまでのフェミニズムは、「女性」というアイデンティティの枠組みから抑圧の歴史や差別について語られてきた。

それまでのフェミニズムは実体の形而上学を採用することで、障害の有無や人種や国籍という形で分断された「女性」に集団的アイデンティティを与えてきた。

だけれどもそうした「女性」に固着してしまうことこそ、「女性」というアイデンティティ外に発生する抑圧や差別を潜在化させてしまうことになる。すなわち、女性というカテゴリーにこだわり過ぎた結果、「それ以外にマイノリティをもつ個人の交差性」を隠してしまう作用があったのだ。

こうした「アイデンティティ政治の限界」から一人一派という言葉は、運動実践として定着していった。もはや個人というのは女性というカテゴリー“だけ”でも、障害の有無というカテゴリー“だけ”でも、人種というカテゴリー“だけ”でも、国籍というカテゴリー“だけ”でも語れなくなった。

「多様な文脈の中に置かれる個人」に注目することによって、「女という個人」という図も浮き上がってくる。その集団と個人の狭間を理論化したことで、フェミニズムは、フィーメイル(女という集団)イズムからミー(女という個人)イズムの振れ幅を獲得したのだ。

カテゴリーの無効化というフェミニズム

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アイデンティティ政治の限界は、それだけではなく、女性を神話や伝統的宿命という本質主義から脱出させることにも作用した。フェミニズムでは「女性の規範や習慣は家父長制や男社会によって、強制させられてきたのだ」という主張が主流であった。であるから、「そもそも女性という立場で解放を願うということこそが、男規範の産物なのではないか」という見方をしたのだ。したがって、真の女性解放に向けて主張されたのは「女性というカテゴリーを取っ払う」ことであった。

従来のフェミニズム観によって「善い女性/悪い女性」を決めつける事をやめ、究極的には「男社会に従順な女性」も、それに対して「男社会に抗う女性」も肯定しようというものだ。お気付きの方もいらっしゃるだろうが、ここにもまだ矛盾は見られる。

男社会に従順な「女性」も、男社会に抗う「女性」も肯定するというのは、結局女性という枠組みを規定しているではないか。女性という規定ありきでしか解放は不可能なのではないかという問いである。このパラドックスはポスト構造主義「フェミニズム」という名が付く限り、永遠に解消されることはないであろう。

こうしたポスト構造主義フェミニズム運動を実際に行っているのは、日本のSNSでは「アンチフェミ左派女性」である。アンチフェミニズム左派女性の間では「巨乳も生きやすい社会へ」「萌え絵などの女性表象を肯定しよう」という動きが見られる。そしてポストフェミニストと呼ばれた女性たちも、女性らしい魅力(胸やお尻)を肯定という者、フェミニズムの役割は終わったのだからと言う者含めて、事実ポスト構造主義フェミニズムという「カテゴリーの無効化」に加担しているのだ。

リベラルフェミニズムVSポスト構造主義フェミニズム!?

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「アンチフェミ左派女性」から最近あがった声と言えば、記憶に新しい「全国フェミニスト議員連盟への反対」「温泉むすめの応援」であろう。それに対してVtuber女性アバターや萌え絵の女性表象を批判したのは「リベラルフェミニズム」である。

フェミニズムのセクトというのは大きく分けて四つに分類される

①ラディカルフェミニズム          ②リベラルフェミニズム           ③マルクス主義フェミニズム         ④ポスト構造主義フェミニズム

今回の対立は②VS④、つまりリベラルフェミニズムVSポスト構造主義フェミニズム(もしくはポストフェミニズムを内包した)であった。

リベラルフェミニズムは公的領域の女性進出を目指す。職場であったり、政治の場であったり、そうした社会進出と言ったらわかりやすいであろうか。女性が社会進出をする際に、「産む性」「か弱い性」「可愛らしい性」というジェンダーロールは邪魔な存在である。だからリベラルフェミニズムというのは従来の可愛らしく弱々しい女性表象を批判することによって、女性像を強化してきた。

しかしながら、フェミニズムの主流派と言われる「リベフェミ」と言っても日本ではリベラルフェミニズムの運動は弱い。古典的リベラルフェミニズムの文脈を引き継ぎながら、資本制社会制度の基本的な構造を容認してきたのが本場のリベラルフェミニズムである。

古典的リベラルフェミニズムの文脈というのも、「神は女性を男性と同じく知的な魂として創造した」とか、「女性を劣性に置いてきたのは男性であり、女性から自立思考を奪うことによって奴隷化してきた歴史は神への冒涜である」と言ったり、フェミニズム前史における「神と知性」という主題がある。日本の婦人運動やフェミニズムでは、そうしたキリスト教的価値観における「神と知性」は当然の如く語られてこなかったし、その延長にあるリベラルフェミニズムが普及していないのも頷ける。

リベラルフェミニズムは歴史も資料も膨大で、ここでは語りきれないので後のnoteをお楽しみに。

Vtuber女性アバターや萌え絵の女性表象も可愛らしく弱々しい旧来的な女性表象だとみなされ、攻撃された。こうした女性像を排除するために、リベラルフェミニズムは「機械論的パターナリズム」を行使してきた。パターナリズムとは家父長制や温情主義の産物とされ、強制的に弱い者に介入する仕草や行為である。本来、家父長制やパターナリズムを批判してきたはずのフェミニズムが、パターナリズムを行使してしまう矛盾に目をつけたのが「ポスト構造主義フェミニズム」であった。

現代SNSフェミニズムが陥る「罠」の正体

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現代に続くなかでも新しいフェミニズムは「ポスト構造主義フェミニズム」である。この党派からしてしまえば、リベラルフェミニズム等は差別的な党派と俯瞰されてしまうであろう。現代SNSフェミニズムが陥る女性差別の「」の正体は、「フェミニズムによるパターナリズム」であったのだ。それを解消しようとしてきたのが「ポスト構造主義フェミニズム」である。

女は多様である。だからこそ、女性の解放を目指すフェミニズムと言えど、内部で対立や反乱が起きたりする。フェミニストを名乗っていない女性とフェミニストを名乗る女性の対立もそうである。多様性が叫ばれる時代に突入した今、そうした女性同士の対立を認めること自体が、女性の多様性を表している。ポスト構造主義フェミニズムは、そうして女性というカテゴリーを多様性にむけて進んでいくのだ———。

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よりポスト構造主義フェミニズムを詳しく(中級者〜上級者向け)

ここからはフェミニズムに知見のある中級者•上級者向けの記事となります。これだけでは物足りないよ!もっと詳しく知りたい!という方も是非。

ポスト構造主義フェミニズム(Post-structural feminism)の代表的な学者にジュディスバトラーJudith Butlerをあげる。

今回の記事の主題はずばり「政治的な表象/代表(Political representation)における主体批判」であろう。実際、筆者のうーたゃがそれを批判しているわけではない。先程も触れたが、あくまでフェミニズム的正しさ/視点における批判である。そこは強く留意していただきたい。バトラーはフーコー(Michel Foucault)の法システムにおける権力の主体論を応用して、生産とのちの表象過程における「まえ-主体(存在)」と「あと-主体(存在)」の倒錯を指摘していることになる。

彼女が「まえ-主体(存在)」を本質ではなく構築物だと言ったのには、わけがある。男社会やそれに準じた男言語というのは、法における規制的かつ保護的な支配を正当化するために「生産され続ける本質である」という風に説いた。もうお分かりだろうが、これは本質主義を主義だと呼ぶことによって、もはや、すでに、本質を脱構築化している。

「まえ-主体(存在)」に通じた「まえ-言説的なもの」と言われてきた中で代表的なのが「セックス」という括りである。彼女はセックスさえもジェンダー化されたカテゴリーだとし、生得のセックスを法的概念だとする。であるから、生得のセックスの上に文化的基盤が書き込まれたのではなく、そもそもセックスという法的概念を「自然化された身体」というように考えたのだ。言い換えてしまえば、「セックスの自然化(naturalization of sex)」を問うたのである。

彼女は本質主義批判、もしくはconstructivism批判としての構築主義に立ったことによって、とことん本質主義の系列を批判していく。社会•文化本質主義に陥ることも批判の対象であり、そうした批判をする為には「権力構造は生産され続け、制約され続ける」というスタンスを採らなければならなかった。

であるから彼女は、自然という遺伝子的要因や社会という環境的要因のどちらがジェンダーに優位な作用を及ぼしているかとか、先天と後天どちらが性差に影響を強く及ぼすかとか、そういう問いを一掃する。フェミニズムは行動主義哲学を選択したときから「後天的な学習によって性差が生まれる」というような主張をしてきたが、バトラーはそのような社会•文化本質主義を斥ける。

生物学的本質主義のみならず、社会•文化本質主義を斥けるために、性アイデンティティの区別がなされた。これはポスト構造主義の立場であるリンダ•ニコルソン(Nicholson)の区分けである。性アイデンティティにおける本質主義を「生物学的決定論」と「生物学的基盤論」の二つに区別することによって、社会•文化本質主義を批判する手立てを得た。

生物学的基盤論」というのは、先程も述べた「セックスの自然化(naturalization of sex)」への示唆として区別化された。『「生物学的基盤の上に何らかの文化的意味が付与される」という意味の生物学的基盤論の文化本質主義に対して、生物学的基盤そのものも何らかの社会構築要素が含まれている。』というものだ。『生物学的基盤を観測する人間も、「自然化されたセックス」という価値観の中に生きているのだから、そうした先入観を完全に拭うことはできない。』という、自然化の再生産批判にも使われている。

こうして「まえ-主体(存在)」を徹底的に疑問視することによって、主体(subject)の存在を無効化した。もっと的確に言ってしまえば、存在しないものとした。

しかしカテゴリーがカテゴリーとして浸透するためには、主体が不可欠である。なぜならばカテゴリーは主体から離れて存在することはできず、言語というのは自分の以前に存在するからだ。ここでは言語の文脈といった方がわかりやすいであろうか。文脈は自分が生まれる前から在り、自分が女に産まれることによって、その女言語を身体に付与される。

バトラーは、こうした言語主体(subject)行為遂行的な連続性を示唆する為に、「行為体」という言葉に変換する。皆様おなじみの、「パフォーマティヴィティー」だ。

バトラーはこうした言語と行為体の不安定性(プレカリティ)を示唆した。この視点を持ってポスト構造主義フェミニズム運動をみていくと、第三波フェミニズムのときに正統なフェミニズムから離脱させられてしまった「ポストフェミニズム(post-feminism)」が思い出される。

彼女らは「女性生来の身体的特徴や男社会で賛美されてきたであろう性的価値を、我々も賛美しよう」というタイプと、「フェミニズムの役割は既に終わっており、もう必要ない」というタイプの二種類に分けることができる。

そうした2タイプの彼女らも包摂してしまうのがポスト構造主義フェミニズムである。言語と行為体のプレカリティをもってして、ポストフェミニストの彼女らも行為遂行性から逃れることはできない。

であるから、それを今日本のSNSフェミニズムまで拡大化して観測してみると、Vtuberや萌え絵等の表象/代表(representation)をもって法構造の確立を分解する手立てになっているのではないか。抽象的な女記号の集合体であるVtuberや萌え絵に付与される、「自由に浮遊した人工物」を我々は今目視しなければならない。すなわち、構築物としてのジェンダーの位置が、そうした表象によって、どう身体を意味するのかを確認しなければならない。

アンチフェミと自称し、そう呼ばれた女性らが目指すところは何か。アンチフェミニズム行為のなかに在る行為遂行性やその不安定性とは何処に在るのか。これはもはやフェミニズムだけの話ではない、全ての女性を包摂してしまうまでの話なのだ——。

よしよしとなでなでのやつ

駆け足で論じてきたが、これだけではまだ一割も語りきれていないだろう。

何度も繰り返しになるが、これは「フェミニズム的正当」から論じたものであり、筆者が「フェミニズム的正当を支持している」や「フェミニズムを支持している」はまた別の話である。再度、留意願いたい。

フェミニズムという現代の性善説①
フェミニズムという現代の性善説②でも触れましたが、ただいま、現在自称フェミニストの不法行為に対して裁判を起こすのにお金が足りません。                    弁護士に相談するだけでも、ざっと見積もって10万、裁判にするとなると一番安くても30万〜50万はかかってしまうそうです。        当方、大学受験を控えた学生の身ということもあり、とても厳しい状況です。         そこで、みなさんに力を貸していただきたいです。もし「note面白かったよ!」とか「裁判頑張ってね」と思ってくださる方がいらっしゃいましたら、是非、投げ銭やサポートをお願いしたいです。よろしくおねがいします!

またの機会に、つらつらと書き綴っていくことにしよう。僕はまた筆を置く。スキやシェアをしてもらえると喜びます。うーたゃは3しゃいねこばぶなので、あとなでなでとかでも嬉しいです!
それではまた!

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うーたゃ

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