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死観

なぜ、生きているのかわからなくなりました。

世界への無知が、心を震わせるほど恐ろしく、何より無知というのが有限であるのか無限であるのかによって、死後の世界が決定されてしまうであろうことに、畏れを感じる。

私が無知である証左は、私の予知もしていない思考が現や前に存在するからです。自分が知覚できない世界を観ているひとというのが、確かに存在しており、しかしながら言語によってその精神の比喩は我々のもとに何らかの媒体で伝達されており、だけれども言語という欠陥において我々が精神を共鳴させることはできないのです。

自他境界のある精神というのは、どうしようもなく、私を孤独の底なしへ、誰もいない夜中三時のトンネルへ放り込むような、そんな怖さがある。自己に対峙する作業が、ハッキリとさせてしまうことが、世界への裏切りであるかのような怖さを感じさせる。それが怖くて怖くて、早く夜が明けてはくれないか、誰か私を世俗の騙しによって孤独を紛らわせてくれないか、と泣きながら一晩を過ごしました。夢の中でも永遠にぼんやりとした苦しみの中ただただ浮かんでいることしかできなかった。

アリストテレスを読みました。自分の精神と向き合うのに、私にはどうしてもなんらかの哲学が必要だった。たまたま手元にある本を手に取ってみた。自分の知覚を誰かも体験したのであろうか、自分の精神と共鳴できるはずの何かとは本当に在ったのであろうか。不可思議な神秘的作用の大きさに1人打ち負けて死にたまふことのないように、私は哲学をやるしかなかった。いつもそうやって死への恐怖を知性に昇華することによって紛らわせてきた。縄を首にかけようとしたくなる前に、ダムに靴を揃えようとする前に、ビルの屋上を開ける前に、哲学書に縋るしかなかった。いつもそうやって、死のうとすれば死のうとするほど私の知性とそれに付随する知というのは増えていったのです。そうでなければ、死んでいた。

結局アリストテレスも、私の精神の比喩を沿うだけであった。ときたま、時代独特の習慣や文化に影響された思考の違いはあるというものの、大元の、精神の作用というのは変わらなかった。自分の精神が誰かに比喩されていることによって私は安堵を得ていたし、首に縄をかけずに済んでいた。にんげんの、本質的な同一や共鳴が、言語によって我々に通達されたことによって、私は孤独を紛らわせることができていた。

そうした「大元」からの発展は、知能によるものである。言語を捏ねくり回し、調合をとり、成立させる。若くは、言語を世界に合わせる。だがこんなことは私にとってどうでもいい、これが私を悩ませた問題ではない。

問題は、無知が有限であるのか無限であるのかというものだ。無知というのはロゴスではなく、ガイストの領域である。己と彼を分ける、自他境界の行く末ということである。もし無知が有限であるとしたなら、我々の生というのは、有限の最大に到達する為の「最大化という実践」でしかない。最大というのは死の瞬間である。厳密に言えば、息が途絶え、心臓が止まり、完全なる虚無を迎えようとする瞬間である。

前もって断っておくが、これは高度な知能による認識を仮定しようなどという話ではない。そうしたものこそ、この話の中でいちばん逸れた主題である。これは知能や認識と言った思考の話ではない。ガイストの比喩であって、他の人にとっては物語か何かだと受け取ってもらえればよい。考察や賞賛や批判はいらない。創作とでも思ってもらった方が随分と楽である。これはただ私の内なる何かを吐露しただけのものである。自分と向き合う為にアカウントを消したという意図を話すためのものであって、であるから心配や賞賛や注目や批判はいらない。自分の壁と向き合うときが来たというだけであり、成長の一過程に過ぎないのだから、単なる書き殴りである。死を主題にしているから精神が病んでいるんだろうとか、今メンタルが危ういのだろうという慈悲はいらない。実際これはそうした性質のものでは、一切ない。思春期や青年期の過程のように受け取ってほしい。

無知が無限であるならそれは虚無であり、無知が有限であるなら虚無ではない。無知が無限であるとするなら最大化など不可能であり、最大と観えるものはただの虚無である。虚無の前の最大化のような「何か」が確実な快楽であったというだけだ。もし我々が無限の無知の中に生きているのならば、我々は救われることなく、虚無の寸前に向かって、ただ、あるかもわからん快楽を疑心暗鬼に眺めるしかない。無知が無限であるということは魂の消滅であり、言い換えてみれば魂など最初から存在しているのか存在していないのかわからず、それらしき偽物に踊らされて、ありもしない楽元を愚かにも願っていただけとなる。

こうした無知の無限への懸念が、この恐怖が、一気に襲ってきてしまった。私の知性は過去の自殺未遂によって覚醒的に得た部分があるが、いや、むしろ自殺未遂によって現の私は作られてきたのであるのだが。こうした機械論から目的論への自発的かつ覚醒的な転換があったということ自体が、もはや無知の有限の作用を証明している。これは一回目の覚醒である。しかし二度目の覚醒なるものは、それを得た瞬間死を達成してしまうという直感的な確信があった。覚醒と言っていいのであろうか、もしくは悟りなるものと言うべきであろうか。呼び方は問題ではない。生と死とその先の超越に対峙してしまうことが、危ういのだ。

いつもその対峙を避けながら生きてきた。対峙してしまえば死んでしまうことなど、わかりきっていた。だから哲学書を手に取り、死を避けた。己れの知性との対峙から逃げることによって、皮肉にもより一層死へと近づいてしまうことはひしひしと体感していたことであるが。知性と向き合わねば虚無を恐れ、魂の実存を確認せねばならないと自らを奮起させることで、己を死の淵に追いやってしまう。逆に知性と向き合うことで死と対峙してしまう直感は、過去に自殺未遂をした時からわかりきっていたことだ。そうした矛盾が、いつも私の生に付き纏っていた。死したとき初めて最高傑作として知性が達成されるだろうというのは、自殺していった哲学者や文豪もわかっていたのだろう。

しかしながら、そうとは言えども、心中に比べて1人孤独に縄をかけるというのが無知の無限を感じやすかったのは何故であろう。孤独に死のうとする前、私の肩に降りていたのは暗澹たるがハッキリとした、虚無への確信であった。これを飲み、これを掛ける後には何も無い、何も無いということを感じられることも無い虚無が広がっているんだろう。いや、広がりすらも無いのであろう。確固たる感覚でそこに感じたのは、虚無という無限である。自らが、「我思う故に我あり」というような、高度な知能によって己を自覚していた、動物と変わらない機械存在だと認めることにあった。

その前に、世の中に愛が認められないのなら、引き離されてしまうのなら、いっそ心中してしまおうと計画を企てたことがある。結論から言うと、あれは愛ではなかった。心中というのは、肉体から発せられた生まれの差異を心から憎む、生と神への憎悪である。どうしてここまで求めているのに身体が邪魔をするのか、秩序が邪魔をするのか、神が邪魔をするのか。精神の統合または超越というのは生に生還させられてしまう故に不可能であり、自他境界の存在のみならず、皮膚が、臓器が、生殖器の違いが、我々の同一化を拒もうとする。生まれ持った精神が、その肉体を持って、死を拒もうとする。生をもって完全な統合とは不可能であり、死をもってしか、混ざり合いや望んだような攪乱は不可能である。

心中というのは実につまらない自己愛であり、所詮は己の還るべき場所を見間違って、相手が己の在るべき“元“であったのだと、差異の肉体を持つ精神こそが行き着く場所であると倒錯した結果であるのです。肉体を棄て精神の統合または超越を願うはずなのに、実際は精神の統合や超越などではなく、有機した肉体への回帰でしかない。生まれを否定し、相手の生まれになりたかったという、肉体への執着。相手の肉体こそが戻るべき場所であるかのような、「死後の世界こそが生であるのだ」という錯覚。

だから心中というのは、共鳴、もしくは同一化に対するいちばんの近道であるのです。自他境界というものが邪魔で仕方がなく、早く取っ払ってしまいたい。大元へ還るという幼少期からの感覚が歪に作用し、大元へ還る摂理を無視した、精神の統合または超越を行わんとする行為です。

もはや、私にはこんなのどうでもいいのです。問題は、やはり無知の有限と無限というものなのです。喪失した魂という、それ自体への恐怖は、自他境界を持ち、自分の世界を“する“ことへの恐怖である。「高度な知能を持たずとも、大元に還るというのを体感する」というのが、自他境界があっても安堵し生き続けられる理由であり、知性による測りこそが生を支えているとしか言いようがない。精神の共鳴によって、同一化できないが共鳴は可能であるという実感によって、我々は魂の存在を確認し、死に急ぐことなく生を継承することができる。

胤というのは何処から来るとか、生まれるとか、そういうものではない。父と母の精神の統合によって自が超越存在としてそこに在り、分け与えられた“もと“が、その気付きによって、知性を樹木のように育たせる。倫理的性状の欠陥というものも、歳月の多少に全てを託すわけではない。そうした知性の気付きを提供したり示唆するのが宗教における教典であったりする。目的論における「人間というものの善」、即ち政治というヘー•ポリティケーの聴講である。

しかしながら、私の云う「最大化」とはそうした性質のものではない。最大そのものの終着点は同じであるが、最大化のプロセスは恍惚であり、精神の共鳴であり、快楽である。宗教やニコマコス倫理学のそれは生のためのものであるが、私のそれは、生を付属品の立場に置き、死の有限を考えることによって、生を快楽的に生きようとするものだ。快楽というのも、刹那で廃退な恍惚では無い。もちろんそうした側面も背負いながら、だけれども連続体で共鳴のある、民族的なトランス状態を指している。

神の救いなど存在せず、神も存在せず、ただ還る場所のみが存在する。神が存在するというのは善き行いの為の、生のための教典であり、秩序である。自己犠牲をして秩序を保とうとも神は救ってはくれぬ。それは秩序のための神であり、神のために秩序があるわけではないからだ。神というのは己の中にのみ存在し、それはすなわち善である。秩序を守らんとする、幸福のための、倫理的性状こそが神である。人間に生まれたのならば、善を体感しているものならば、心のうちの神なるものに何れか気付く。神は無条件に存在するのではなく、己の倫理的性状を育たせることによって、共に善性を纏い、己を救う。神の付属品であるぽかぽかとした気持ちこそが幸福の根源であり、名声や財や慾無くして感じられる“もと“である。

還る場所というのは、神に左右されない。幸福の根源との連続性はあるが、善そのものではない。それ自体は神の居場所では無い。還る場所の想起というのは、匂いや自然の景色やその感触や音によって呼び起こされるサウダージである。背中から倒れ込み、そのまま落下して同一化を願うというような、大元への還元欲である。

有機体と無機体には連続性があり、手を加えられた無機体には人間の面影が残る。これはユーリー•ミラーの実験のような意味では無い。そうした話ではない。人々の生の痕跡をみるという話である。全ては、営みが或る一つの精神に従属するというような、棟梁的な根源を、無機体にみるのである。そうした幾つかの痕跡の大元というのを辿ると、棟梁的な位置にあるのはひとびとの記憶である。生の記憶である。その記憶を残した者が死んでいようが、今ここに生きていようが、関係はない。ただ人々の営みの痕跡として、散りばめられているというだけだ。

無機体から感じ取り、有機体から伝承する。無機体から生の営みを同一化し実行することはできないが、有機体からは知の統合と継承と実行ができる。還る場所というのは無機体と有機体の狭間にあり、どちらでもない。無機体から感じ取るという動作は生によってしか行われず、有限の無知の元には「感じ取る」という他者的動作を受容することはない。同一であるのだから、意識を向けるだけでそこにただ存在される。

最大化の過程にあるトランス状態では、無機体と有機体の連続性の世界を見透かすが、想像した、もしくは実存した生の有機体の侵入を確固として拒む。他が精神の共鳴に欠陥的な存在であるからだ。トランス状態とは知覚せずともそこに在る調律、または空気、または生の痕跡との同一化であるが、最大に近づけば近づくほど過度に有機体的な存在とはかけ離れる。最大は有機体ではなく、狭間であり連続性であるからだ。

無気力は何処から生まれるのであろうか。無気力は付与されるものではなく、生という誤魔化しを取っ払った先にある死への恐怖である。善や営みや行為というのは全て死の隠蔽であり、虚無への回避的仕草だ。虚無を感じさせぬ為に人々は善という神を心の中にこさえた。それが家族や友人や恋人というものである。そうしたものが欠如した個は、虚無に対峙しなければならないときを経験する。こうした人間が腕を切り、薬を大量摂取するというのは、営みという誤魔化しの、疑似行為である。しかしこれは営みの疑似行為というだけであって、死への回避的仕草という点ではなんら営みと変わりはない。

だがジヒドロコデインリン酸塩に始まる薬の大量摂取は、精神の共鳴または同一化した先にある震動を得られるかと言ったら、そうではない。言語世界の引き出しを取っ払い、精神の共鳴をより先鋭に感じさせる装置ではない。中枢抑制作用とその朦朧はトランス状態を引き起こすものですらなく、単なる偽物砂糖である。甘ったるく気怠い精神の共鳴が起こされると言ったら全く違って、死の直前に起こる肉体の痙攣を模擬的に起こしたものに過ぎない。いや、確かに死の前の快楽へと連続性がある“本物“ではあるのだが、何かが欠陥している。欠落は何かと問えば、最大化を行う為に備蓄された生への期間において逆説的に神殺ししてしまうことによって、ポカンと空けることになった善における棟梁の無効化であろう。棟梁を問い、系列を無限に遡っていったところで、神を殺してしまえば空虚で無意味である。系列を遡る前でも、それ自体を行う途中であっても、神殺しというのは結局のところ目的を虚無へ追いやる。問題は、生に生かされている今、生を持ってしか無知の有限や無限を追及することができないのに、その時間を棄ててしまうことによって、神殺しと共に死を虚無に追いやってしまうということだ。外的な知性の破壊に伴って、時間を喪失させ、さも機械動物のように情念のまま朽ち果てなければいけないということだ。神というのは単なる比喩である。実際のところ神と呼ばれるものは人々の目的、善、生の秩序である。

無気力感は魂を消滅させ、死後は虚無しかないような錯覚を起こさせる。しかしかながら精神の震動というのは絶えずそこで行われており、神の殺害によって、精神の震動を隠蔽させられているに他ならない。神の殺害というのは、ある種のヴェールである。神は生の時間である。神の殺害によって生の時間を奪われ、生きる精力というものを失う。

誰が神を殺害したのであろうか?と問われれば、社会の機械化であり、機械論的世界化であり、目的論の追いやりである。善の、秩序の欠陥である。還る場所があるとも言えど、生の間に神を殺してしまえば、最大化という行為すら手から遠のいてしまう。無知の有限を考えるのには神が必要である。付属品という生を成り立たせるに於いて神は必要不可欠であり、生というプロセスにおいて最大化を目指すのだから、神を殺害した生では、無知の有限すら思いを巡らすことはできない。神の存在と還る場所の存在は全く別の領域であるが、生の立場から還る場所を追及するには、生という神と一体でなければならない場所を保持する為だけに、神を存在させなければならない。そういう意味で最大化にとって、神は不可欠である。

このような書き殴りを許してほしい。死への恐怖は誰にでもあり、誤魔化しつつ乗り越えていくのが人間であると思う。ただ私は死への関心と、自分の中で死の存在が大きかったというだけだ。ただそれだけの話であって、それ以下でもそれ以上でもない。崇高で難解なことでもない。一般よりも精神が病んでいるとか、異常人であるとか、そういうことでもない。死の恐怖で一晩泣くことくらい、誰にでも経験のあることだろう。結局このような綴りも精神世界の比喩でしかなく、言語というのはやはりガラクタの置き物にしかならない。この書き殴りは比喩の語彙が少し多かったというだけである。その点で我々は最大を持ってしか無知の有限に辿り着くことはできなく、邪魔な言語によって、あたかも無知が無限であるかのように錯覚させられてしまう。そうした無知の無限への恐怖が、虚無への恐怖であり、死への恐怖である。己の死と、無知の有限/無限と対峙する気力を、私は持たなければならなかった。無知の無限に慄いてアカウントを消した。もはやここで結論が出てしまっているようにも思えるが、まだ最大に辿り着いてはいない。無知の無限が襲ってくる限り私はまだアカウントを戻せそうに無い。私はまだ死ぬつもりはない。死をもって最大の確認をしようとは思っていない。己の死と向き合えたとき、私はまた皆の場所に戻ろうと思う。

うーたゃ

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