見出し画像

暴力性とは何か—正と負にみる精神と思考—


うーたゃ教の信者の皆様、今日も晴天のもと生を感じていますでしょうか?

今回は遅ればせながら暴力性についてつらつらと書き綴っていこうかと…

ハテ、暴力性とモテとは何処からきた話であるのか…そうそう、界隈で有名な、あの可愛らしい統計坊やと手のひらに目の書かれたアイコンのお兄様から始まったんですっけ?ハハハハ。イヤ…ここまで人々を話の渦に掻き立てるとは、さそがし色んな人間の琴線に触れてしまったようで…

さて、暴力性の咄に移っていきましょうか。サ…ゆっくり、肩を下ろして読み進めてください。折角の秋の夜長ですから、美味しいお酒でも呑みながら…

思想というのは微分積分が大切です。そう、あの数学のアレ。この思想が何から派生したのか、何を応用したのかを己の知性で見極めていくことが要なのです。しかし高校数学と唯一違うのは、知能ではなく知性で分類するということ…歴史や人々の営みを凝視めるというのは、己の知性と対峙することなのです。

言葉の欺瞞的なレトリックに騙されず、よーく暴力性という観念に向き合ってみましょう。サ…よーくよーく目を凝らすのです…


精神と思考、感覚と理論

これは男の精神の話なのです。精神と思考は対であり、感覚と理論なのです。

例えば、そこに女がいるでしょう。女をまじまじと観察してみれば、彼女がどのような思考の持ち主なのかが解ります。

赤ん坊を目の前にしている、ああ…赤ん坊が泣き出してしまった。母乳なのか、オムツなのか…確認して…。

赤ん坊が泣くというのは何らかの原因がありますから、その不快な原因を探って解消してやろうとするのが思考なのです。そういった先人たちの知恵や知識の積み重ねや経験を、己で実践し、試してみようとするのが思考というもの。

…ああ…赤ん坊が泣き止みませんね。これではヒステリーを起こしてしまいそうです、これを何日も繰り返すとなると…少なくとも僕は…耐えられません。

そしてもう一度そこの女をじっと観察してみましょう。思考では理解できない不可解な点が出てくるはずです。

何故目の前の女は、それでも赤ん坊に向き合って愛らしく笑うのだろう?その感情は何処から湧き上がるものなのか…母性という本能なのか?

思考では言語化することのできないもの、これが精神というものなのです。だから我々は精神を比喩することしかできないのです。男には女の精神を解ることなどできませぬ。女も男の精神を解ることなどできませぬ。永遠に体感も実践もすることのできないのが他人の精神というものです

暴力性というのは簡単に言ってしまえば、男の精神と男の思考です。
男の精神を比喩したのが「暴力性(概念)」なのですそして男の思考を言語として発露させたのが「暴力性(実践)」なのです。



暴力性とテストステロン

暴力性における男の精神とは何でしょうか?テストステロンでしょう。男性ホルモンのことであり、筋肉質な体型や骨太のがっしりとした体格を作り上げます。

第二次性徴と呼ばれる思春期に向かって急激な増大をし、山型グラフを描いてゆっくり減少してきくいくテストステロンの分泌量をみても、実社会の男が「いつ」暴力性を発揮するようになるかは自明でしょう。テストステロンは性欲、加害心、闘争心として影響します。この男性ホルモンこそ、「暴力性の核」であるのです。

暴力性によって、女に飢えて渇きを癒すように女を求める…攻撃的な暴力という形をとって服従させる…上に昇っていこうと権威に向かっていく…全てテストステロンの事情なのです。

ハテ…暴力性が男性ホルモンだとしたなら、女性は暴力性を保持しないのだろうか。いやしかし、この眼鏡で世の中を覗いてみますと、どうでしょう。

不甲斐ない彼氏に怒鳴りつけている女、癇癪を起こした子供を引っ叩く女、友人の悪口をヒソヒソ言い合う女…色んなところで暴力性「っぽいもの」が発露されているようです

…ハテ…

ここで暴力性のモテの主題である、僕の「正と負」のセクトへ行きましょう。そうすれば正体がなんなのかわかるはずです。


————————————————

正と負と精神と思考と

精神とはであり、ハートであり、知性です。心から人を愛すというのは精神からの現象です

そして思考とは言語であり、マインドであり、知能です。刹那的にパッと散るような恋愛は思考からの現象です。

ここでは「正の精神の暴力性」「負の精神の暴力性」「正の思考の暴力性」「負の思考の暴力性」という分類をします。

精神における暴力性とは善-悪であり、目的論です。思考における暴力性は快-不快であり、機械論です。善と快を正、悪と不快を負と仮定しましょう。

正の精神の暴力性


正の精神の暴力性というのは男も惚れる男のソレなのです。ドンと構えた黒熊の様な精神、徒弟を引き取り育てる様な精神、細く弱い女を庇護し責任を負うような精神…逞しく一本槍に進む男というのは、男からも惚れられる存在です。

正の精神の暴力性というのは優しいのです。正の精神の暴力性の究極は「家庭を築き責任を負う」というところに辿り着きます。正の精神の暴力性の習得者は孕ませた女を独り置き去りにする様なことはしない。

晩を過ごした女が、ソロソロとやって来て、不安気に目を泳がせ、焦燥しながら月のものが来ないと云う。差し出された検査薬には薄らと紅い線がうつっている。どうやら自分の胤を宿したらしい。ならば俺が責任を取ってお前とその孩児を養ってやろう。俺のところに嫁に入り、妻となり母となれ。お前の全てを引き受けてやる。というのが、究極の正の精神の暴力性なのです。

正の精神の暴力性というのはそうしたものを、出会ってから、段々に、行為で示していきます。決断コスト責任コストを引き受ける。

今日は彼処に行こうか。
夜はこれを食べようか。
辛かったら頼りなさい。
付き合おうか。
同棲しようか。
結婚しようか。

…そうやって何度も何度も積み重ねるのです。俺はお前に責任を取ってやれる器なのだと、行動のうちに示すこと。空想や口の中だけではなく実際に実践するんです。行動し、無言の中に見せつけるのです。

ハテ、これととても似たものに「日本の職人」という立場があります。師匠の背中を見て徒弟は育つ。無言の中に経験や器やその重く背負った精神を「感じて」、師匠の背中の大きさを知るのです。精神の重み、その知性。

尊大で、威厳あるその姿がこの人になら着いていきたい、恭順をしたいと思わせる。巷で一瞬騒がれた「尊敬できる男の人が好み」と言う女も、そうした知性(精神)に惚れているのです。心から女に愛される男というのは、女の精神を掴む者なのです。

正の思考の暴力性

モテというのは、男だけでは成立せず女がいなければ成り立たないという当たり前な事情がありますが、その通り、正の思考の暴力性とは女を仕留めるモノです。刹那的にパッと激情のなかに惚れさせ、倒錯させるモノなのです。

正の思考の暴力性というのは…マインドの管理なのです。こんなこと云ってしまうのはとても危険で横暴な行為だということを僕は自覚しています。人間の機械化、ロボットとして扱い、ゆっくりとジワジワと自律性を受け渡させるものなのです。

ここで男から女に使われるのは学習理論です。「刺激→反射」という図式をうまく使って女をパブロフの犬にしてしまうことこそ正の思考の暴力性の本質です。

皆様お馴染みの「パブロフの犬」は生理学者のイワン•パブロフの実験で、彼は犬にメトロノームを聞かせます。犬に餌を与えると犬は喜んで尻尾を振り出された餌に涎を垂らし食べ散らかします。こうした刷り込みを何回も繰り返し、学習させます。すると犬はメトロノームを鳴らしただけで涎をダラダラ垂らすようになるのです。

こうした報酬学習を女に応用したのが恋愛工学なのです。恋愛工学の基礎には

「ラポール形成(信頼関係を作る)」

「イエスセット(相手がYESと答える質問をしてYESを出しやすくする)」

「ペーシング(相手の態度やスピードに合わせるミラーリング等)」

「バックトラッキング(相槌のさしすせそ)」

「返報性の原理(お返ししなきゃという気持ちを利用する)」
等があります。

ハテハテ…ここまでお読みになった皆様はもうお分かりのことでしょう、これらの全てがパブロフの犬のような、学習させる行動です。

恋愛工学が何故「最低で畜生的な行動」「生理的嫌悪感を感じる非人道的な行動」と言われるのか、それは「女は単なる反射的行動で動く動物だ」という前提のもとに行われる、行動主義的behaviouralなやり口であるからです。正の精神の暴力性を善しとする人間から観たら、これは悪いことで、快-不快に生きる行動なのです。

しかし女というのは男と相対に、生来機械的存在でありますから、善い悪いの指標よりも良い(快)悪い(不快)の指標で男を測ってしまう傾向があります。だから女に都合の良い男というのは、女の慾望を満足させてくれる男であり——モテるのです。

——————————————————

負の精神の暴力性

対して負の精神の暴力性とはなんでありましょう?
他責、怯懦、他罰なのです。孕ませた女から逃げ、路頭に押し出し、堕胎させることです。

自律性の無い者を庇護するのが正の精神の暴力性でありました。負の精神の暴力性とは責任から逃げる行動であるのです。

モテにおいて正の精神の方向に発露されない暴力性というのは、根本に責任からの逃げがあります。行動で示すことと対称に、口だけの男ということ。

今日は彼処に行けばいいの?
君が決めたんだからね。

夜はどれを食べればいいの?
君が決めたんだからね。

辛かったら頼ってくるとかされるの?
君が決めたんだからね。

付き合いたいとか思ってる?
君が決めたんだからね。

同棲ってどうなのかな?
君が決めたんだからね。

結婚したいならどうする?
君が決めたんだからね。

これは典型的な、責任コストを払わない男です。現代の女は一緒に相談して決めたいという自律性のロールを継いでいるので、決断コストに関しては、相手の女を観察してバランスを取ればいいのです。しかし女というのは責任コストを得るのが苦手で、最終的には終わりの頃には男が引き受けることを望んでいます

だからこそ責任コストを負ってくれた男は女から慕われるのです。人としての尊敬のもと関係が長続きしていきます。愛のもとに時間を過ごしていくからです。そうした尊慕のできる女は「いい女」でしょう、なんせ男の責任を当たり前と唾棄せず、その恩恵を自覚してくれているのだから…

ハテ…読んでいて皆サンもおわかりいただけたでしょうか。負の精神の暴力性とは女々しさなのです。庇護欲や甲斐性を引き出す様な弱さ…女は女の腐ったようなものを求めていません。

負の思考の暴力性

それに対して負の思考の暴力性とは女に「警戒をさせ」「キモいと思わせ」「生理的嫌悪を与えさせる」モノです。

女の負の性慾?そんなもの、男が負の思考の暴力性を発露した結果でしょう。…怒らないでね…

もし貴方が女から蜚蠊の様に嫌悪され、蛆虫を見る様な目で気持ち悪がられているとしたら、これから解消できるようお教えしますから。

ですから、どうぞ、お酒を手に持ったままゆっくりと、読み進めてください。女に相手にされなかった苛責を、強いお酒で飲み下しましょう。ここはカーーッと、一息に

負の思考の暴力性というのは、女に快を与えられない行動です。先程も明示した通り、女は生来によって機械的存在ですから快-不快(功利主義)と結びつきやすい性質を持っています。快-不快というのは女個人によっても感覚が激動し、正解がありません。おそらく正解にコミットした男は正の暴力性を獲得し、モテ男となったでしょう。

貴方は女から不快だと思われているのです。清潔感がないのでしょうか?権力がないのでしょうか?金がないのでしょうか?コミュ力がないのでしょうか?

快のベクトルはよりイケメンに、より権力に、より金銭に、よりコミュ力に、作用します。要するに、貴方が陽キャのお兄様でいるのなら…モテるでしょう。しかしそんなことは酷であって、気概のない男は可哀想な陰キャのままです。だからこそ貴方が陰キャでも、女体にありつけるように、女の機械的性質を利用したのが先ほどの「恋愛工学」なのです。


負の精神の暴力性を包摂する歪んだ母性

そして、男と女の身体というのは非対称でありますから、女の精神というのは男に庇護欲を発露しないもの…女の精神というのは母性にあり、母性とは赤ん坊や自分の子供に向けられる庇護欲なのです。正常な母性というのは断じて、成人男性のお前には向かない!ハハハハ。可哀想に。誰からも恭順も母性も向けられないのなら、うたゃに一言DMするのですよ。

フェミニストの云う「私達はお前のママではない」というのは、女の本能を表した、的確で躊躇ないホンネです。

だって、貴方は私の赤ん坊ではないのですから。いつ貴方は私の子宮から生まれたというのです?私の母性を刺激したことはなかったでしょう。
トテモ我慢しきれない。

というのが女が弱々しく女々しい男に向ける目線です。しかしながら女の本能を引き出す男というのが稀にいるのです。母の精神をグイッと寄せ、歪な母性として発露させるのが、そう、ヒモ男です。これはまた後で新規noteに書き綴りましょう。

————————————————————————

目的論と機械論

…そこに憂い顔をした女が立っている。ソッと彼女に問うてみましょう。

貴女は反射的思考によって、行動の全てが構成されているのですか?

それとも……道徳的精神によって行動の全てが構成されているのですか?

…少し易しく解釈すると…
環境に貴女の身体「全てが」支配されていると思いますか?

それとも貴女は自ら目的を持てる…少しだけでもいいのです、そんな大層なことでなくてもいいのです、目的で貴女自身の身体を支配していると思いますか?

貴女の直感で良いのです、むつかしく考えずに…

……フウム……

——————————————。

それが答えなのです。人間というのは反射的行動と道徳的行為のどちらも背負う生き物なのです反射的行動だけでも道徳的行為だけでも生きてこれなかった。

それがこの歴史や人々の営みが示しているでしょう、機械論と目的論を一元論で考えることは不可能であり、そうした一元論と云うのは空想的な不可思議な神秘作用の幻想の中にしか存在しないのです。

貴方が激烈な性慾を抱えようと、貴方の「道徳的なこころ(正の精神の暴力性)」が、目の前に立っている女を強制の婚姻によって蹂躙し、機械化させ家畜化させてはならないと云っているのです。男の性慾というのは、堪えるのも苦痛だと聞きます。

スッカリ慾望の奴隷になることなく、その道徳的精神から非人道的な行動を避けたことが、どれほど苦行であったことでしょう。功利的な思考のもと強制の婚姻、すなわち強姦を行う選択肢を、貴方が捨てたのはとても善いことなのです。それ自体が貴方の道徳的(精神)行為の現れです

しかし現実のモテというのは、道徳的精神を一切捨てることでも行われてしまうのです。女を殴り、パチンコ代を出させ、セックスを盲目的に求める様な男でさえモテるでしょう?それは女のマインド(思考)を管理できたからです。

女を家畜化し、パブロフの犬として扱うのは機械化だと先ほど申しました。マインド管理を行える人間こそ支配の立場に立つ者です。

この世の中というのは、「全て」の人間が「1番の」お金持ちには成れないように、「全て」の人間がが「支配者」に成ることはできません。誰かしらの支配者に成るということは、相手を教育し、躾をし、護らなければならないのです。快-不快ではなく、善悪に生きなければならないのです。

庇護を捨てた男というのが俗に云われる「クズ男」です。そこには庇護という責任から逃げた負の精神の暴力性の表れと、快-不快に生きる様を見ることができます。

善悪というのは人間の営みのなかであまり変わりません。聖書の教えが、宗教の教えが、今も善いとされて続いているのは人間の精神が変わることなく継がれているからです。そして宗教というのは大抵は目的論的世界の産物です。永遠に変わることのない善悪の指標がそこにあります。

しかしながら、快-不快というのはどんどん激烈に移り変わってゆきます。機械論的世界です。そうした激動のなかに生きていたら弱いものは搾取されて、強いものがウハウハの世界に突入してしまう。そうした懸念を持った賢い人たちが、法を使って人間を極端に功利主義的な行動に走らないように抑止したのです。


————————————————————

正の暴力性と負の暴力性とモテ

正の精神の暴力性の持ち主と、負の精神の暴力性の持ち主は、どちらのほうが女から慕われ愛されるでしょう。

正の思考の暴力性の持ち主と、負の思考の暴力性の持ち主ではどちらがよりモテに近づくでしょう。

精神の暴力性と思考の暴力性というのは相互に作用しているのです。

…お酒が不味くなってしまいましたね。あまり胸糞のいい咄ではありません、不承不承にイヤイヤながら理を受け止めていくしかないのです…

サ、貴方の道徳的精神に新しいボトルを開けましょう!

性慾という悪魔の戯弄を躱した貴方はそれでいいのです、心が虚しくなる恋愛工学なぞ捨てて愛に生きるべきなのです。性慾というのを愛のもとに吐露させるのです。

僕は一旦筆を置きましょう。
また次の更新を楽しみにお待ちください、まだまだ僕の引き出しは絶えることのない波の様にありますから、それを見ようとせん知的好奇心を準備して待たれていますと、嘸かし喜ぶのが、うーたゃという生き物です。

3しゃいねこばぶ うーたゃ

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?