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ティーンが寿司ペロ大炎上に思うこと

罪を背負うべきは誰なのか、背負うべき罪とはどこにあるのか。

17歳の少年が寿司チェーン店で迷惑行為をして、SNSは大炎上の渦を巻いた。わたくしも同じティーンとして、「迷惑行為の罪」について考えていきたい。

そもそも何故?
寿司チェーン店でペロをしてしまうのか?

【第一章 社会のルールと自然のルール】

われわれティーンは閉鎖的空間の中で生きている。社会に出たこともなければ、社会の仕組みを知ることもしていない。もちろん、高校生でバイトをして少しは社会を知る機会を得たティーンもいる。だけれども、基本的には学校という「内輪の閉鎖的空間」で生きている。

この内輪の閉鎖的空間というのはおそろしい。社会のルールが、大人からの指摘によってしか通用しないから。

というのも、人が人と群れを作る時、構造として最低限のルールが、自然と作られる。学校という空間で出来上がる最低限のルールは、陽キャとか陰キャとか、そこにできるカーストとか、起きてしまういじめとか、である。学校の「ルール」というのは誰かが人為的に作り上げたわけではない、「自然のルール」である。人間が群れを作る時に自然に起こってしまうルールを、どうにか変えていこうとするのが「社会のルール」である。

その「社会のルール」の指示役を担うのが、教師や保護者たちである。「いじめはしてはいけないよ」とか「物を壊してはいけないよ」とか「物を盗んではいけないよ」なんてこと。いわゆる躾と言われるものである。大人から子供への監視をもって、われわれティーンは少しずつ「社会のルール」を身体に刷り込んでいくわけである。

しかしながら、学校という閉鎖的空間は、社会のルールより自然のルールの力のほうが、とても大きい。

女子高生の流行りだとか、男子高生の内輪ノリなんかが、その代表的な例である。女子高生のファッションや持ち物の流行りは、消費社会が裏で基盤を作っているとはいえ、彼女たち独特に形成されていくものである。流行りに倫理や道徳は大して重要なものではない。男子高生のおふざけやからかいの内輪ノリも、同じく彼らの中で独特に形成されていく。そのなかで倫理や道徳が重要なものであるかを問うと、これもそうではない。

「女子高生の流行り」「男子高生の内輪ノリ」これは自然のルールである。それに対して、「倫理や道徳」は社会のルールである。

ティーンがあれだけ楽しいのは、自然のルールのうちにどれだけ社会のルールを無視しているかに依存する。言い換えれば、社会のルールに関与されず、それを考えることなくいられるか、である。

大人になって、社会に出て、青春時代がとても輝いて見える時がある。それは社会のルールが自分の体に染み込んで、自然のルールを制限してしまったから。

いかにも、日本人は国民性上、逸脱した行為を行わない民族であるから、社会のルールを自然のルールが上回ることは、あまりない。子どもが大人の手に負えて、いい子ちゃんでいるのも、自然のルールの力がそれほど大きくないからだ。われわれは、いじめをして人を直接殴り殺してしまうなんてことを、滅多にしない。

今の時代、学校をバイクで走り回りましたとか、窓ガラスを割って過ごしましたとか、窃盗上等です、なんて子はとても少ない。むしろこれは自然のルールが社会のルールを超えてしまったというよりかは、ティーンが社会のルールを持つ過程で、あえて社会のルールに反抗しようとする、拒否反応に近い…ということは今は本題ではないから、置いておこう。

自然のルールで群れている時ほど、ティーンにとって楽しい時はない。今回の寿司ペロ大炎上問題はここにある。

彼ら彼女らは、社会のルールで回っている「寿司チェーン店」「カラオケ店」に行っても、なお自然のルールのままいた。流行りのままでいた。内輪ノリのままでいた。

ここは、自然より社会のルールが強いのだと認識せずに、自然のまま楽しんでしまった。

あらゆるメディアで「なぜ続々と迷惑行為が」というテロップを出している。しかしながら、これは「続々と」起こったことではない。今まで普通に起こっていたことが、あの件で可視化されたに過ぎない。

全ての高校生がああなわけではないが、全ての高校生のうちの一定数はああである。社会のルールが身体に染み込まず、自然のルールで外に出る。その自然のルールが社会のルールを上回った時、彼らは社会から猛烈な批判を浴びる。

今回のことはたまたまではなく、起こるべくして起こったものだと言えよう。SNSがあってもなくとも、一定数はああである。SNSがあったから、自然が社会を上回った瞬間がこんなにも拡散されたわけである。

自然のルールが迷惑行為だけかといえば、それだけではない。大声で笑うのも自然のルールであるし、スカートを短くするのも、二郎系ラーメンで大食いをするのも、プールに飛び込んでみるのも自然のルールである。校則に違反するのも自然のルールであるし、学校に隠れてバイクに乗るのも、自販機の上に乗っかってみるのも、寿司ペロをするのも自然のルールである。

要するに、自然のルール自体が悪いわけではなく、「自然のルールで楽しんでいたものが、いつ社会のルールを飛び越えるか」が本題なのである。社会のルールさえ飛び越えなければ、ティーンは存分にその自然のルールの楽しさを味わうべきだ。

ある議員が「昔はごつん一発で済んだのにな」とツイートしてプチ炎上している。これは、「社会のルールを飛び越えたティーンに対して、誰が『社会のルールを飛び越えているよ』と指摘するか」の問題である。

一昔前は、社会のルールを飛び越えたティーンは地域の目によって指摘されていた。もっとも、指摘の仕方は、暴力であったり叱責であったり、今でいうパワハラなるものであったかもしれないが。

今の時代は、社会のルールを飛び越えたティーンはSNSによって指摘される。その指摘の仕方は、社会的な立ち位置の失落であったり、訴訟であったり、電凸であったりするものだ。

SNSは「社会のルールを飛び越えた人間への指摘の方法」を、直接から間接に変えた。暴力から社会的立ち位置の失落に変えた。一度きりの暴力は、その後の人生を曲がりなりにも矯正するかもしれないが、一度きりの社会的立ち位置の失落は、その後の人生を立ち直り不可なものにする。

第一章 社会のルールと自然のルール 完
また加筆します

罪は何処にあるのか

【第二章 誰が170億円超の損失を生んだのか】

第一章では何となく示唆をしたが、はっきりと言おう。社会のルールラインを踏む行為は、ティーンの中でもう既に、何番煎じと起きている。

TikTokはそれをSNSに可視化させた機会に過ぎない。ティーンにおけるTikTokとはどういう場なのか?自然のルールで構築された場であるのか?それとも社会のルールで構築された場であるのか?ティーン目線でTikTokはなんたるかを言語化していこうと思う。

「TikTokerはアホでバカで知能の足りない人間のやるものだ」とよく形容される。それは社会のルールではなく、自然のルールによって、コンテンツが盛り上げられるSNS形態をとっているからだ。ということは、もちろんTikTokの場は自然のルールが優位である。

ティーンの間で、TikTokというのは「若者たちが集まって情報共有をする内輪」という空気感がある。閉鎖的な学校空間の延長として、TikTokがある。ティーンからしたら、クラスがちょこっと増えたようなものである。高校のクラスはせいぜい3〜7クラス程度であると思うが、それがTikTokという媒体によって20や50クラスに増えただけ。そんな感覚さえ覚えさせる。

03世代から07世代のティーンというのは、どことなく仲間意識を持っている。社会に出た大人たちと一線を引く、ある意味の共同体のようなものだ。

例えば、「ナンパ」と呼ばれる行為についてもそうである。02世代以上の異性に話しかけられたら、0307ティーンは違和感や恐怖感や不快感を抱く。しかしながら、0307同世代の異性に話しかけられたら、違和感や不快感どころかなにか仲間意識を感じる。

そりゃあ、知らない大人に話しかけられたら怖いのは当然だ。だけれども、話しかけられる行為に対する、負の感情の本質は、そこにあるわけではない。社会のルールが染み込んだ人間と、そうでない人間(つまりティーン)との、明確な空気の違いをそこに感じ取る。

社会のルールの空気を漂わせる人間が、一気に自分とは別の人間かのように思えるのだ。だから、02世代以上の異性から話しかけられることは「ナンパ」であり、0307世代の異性から話しかけられることは「交友関係のお誘い」である。

話しかける言葉の内容が一語一句同じであったとしても、声かけをしてくる人間の纏う雰囲気によって、その声掛け行為に付けられる名前は変わる。社会のルールでは「ナンパ」であるし、自然のルールでは「交友関係のお誘い」である。

同じ自然のルールで生きているだけで、「わたしとあなた」「われわれとかれら」が、会ったことのない同胞か何かのように感じられてしまう。こんな雰囲気がティーンにはある。

TikTokでもその雰囲気は有効である。というか、有効であるからこそ、「楽しい内輪ノリ」が同時に「迷惑行為」であることと両立する。

寿司ペロという行為は、外か内(輪)かの違いによって、「迷惑行為かつ犯罪行為」になり得るし、「楽しい内輪ノリ」にもなり得る。

外であるということは、社会のルールであるということだ。内(輪)であるということは、自然のルールであるということだ。

TikTokの動画は、Twitterに持ち出されて初めて炎上の形を取ることが多い。これは、自然のルールの場から、社会のルールの場に持ち出されたということである。Twitterは年齢層も高い。また、そのSNSの特性上、倫理や道徳が上位となりやすい。倫理や道徳は社会のルールの一つであるから、もちろん自然のルールを行った人間は、社会のルールで生きている人間に批判される。

寿司ペロニキを筆頭として、あらゆるインフルエンサーが、自然のルールで生きるティーンを炎上させている。そう、「炎上させている」のだ。

ルールを、「自然であるか、社会であるか」に分けるには、自然と社会のどちらも知っておかなければならない。なぜなら、自然のルールの中で生きていたとて、それが自然のルールだとは自己認識できないからだ。対比する対象があって初めてその行為に名前が付く。

社会のルールを取得した人間は、一度は自然のルールを通った人間である。つまり、子供から大人になった人間だ。インフルエンサーは、Twitterが、少なからず社会のルールで動いていることを知っている。だから、自然のルールで生きるティーンをたくさん掘り出して、Twitterにポンと置いてしまえば、それが炎上することも知っている。

そして、インフルエンサーはマネタイズする人間である。ここまでくれば、私の示唆することが、読者の皆様にもお分かりいただけることだろうと思う。

はて、ここでもう一つ考えてみよう。

回転寿司で、少年が湯呑をペロッとする様子を、店員が見ていたとする。店員は、どういう対応をするだろうか。少年に対して、千万単位の損害賠償を請求するだろうか。

おそらくしない。ほぼしない。
アルバイトクラスの店員に注意されて、悪くて店長さんが出てきて叱られて、終わりだろう。出禁もあるかもしれない。

だが、少年が湯呑をペロッとする様子を、SNSに拡散したらどうだろう。これは想像するまでもなく、実際に起こっていて、結果は「千万単位の損害賠償が見込まれる」であろう。

寿司ペロ自体が、170億円の損益となったわけではない。寿司ペロがたくさんの人の目に触れて、他のお客が少年に嫌悪感を抱き、寿司屋に期待していた安全性がガラガラ崩れる様子が、170億円の損益になったわけである。

一つの寿司ペロから、たくさんの寿司ペロや、その他迷惑行為を紐づけて、「炎上連鎖」を起こしているのはインフルエンサーである。インフルエンサーは自分の懐のマネタイズをする代わりに、大手寿司チェーン業界に多額の損益をもたらした。

発端(寿司ペロニキ)そのものよりも、発端をどうやって広告(炎上)するかが、寿司チェーン店の損益の命運を分けたわけである。

そうなると、寿司チェーン店が積み上げてきた安全安心は瞬く間に崩れていく。大炎上が広まる速度と同じく崩れていく。寿司チェーン店の安全安心は、寿司ペロの回数だけ崩れたのではない。寿司ペロを広める回数だけ崩れたのである。

であるならば、寿司チェーン業界にいちばんの損益をもたらしたのは誰であろうか。考えさせられるところもあるだろう。

もちろん、湯呑や醤油ボトルを舐めるのは許しがたい行為である。その一件は許し難いけれども、それとは別の話として、損益をもたらしたのは「一体誰なのか」という問い。

第二章 誰が170億円超の損失を生んだのか
完 

あえて、ここから先は読者に委ねたい。
青年らはどうするべきだったのか。
そして「我々は」どうするべきなのか。

つまりは、「我々はどう青年を見守っていくべきであろうか。」

見守っていくというのは、なにも甘やかすだけではない。叱り、突き放し、褒め、成長を促すこともまた見守りである。

我々は、どう生きるべきなのか。

うーたゃ
2022年02月24日

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【編集後記】
現在、わたしは学費の納入に困っている状態です
もし記事が読み甲斐のあるものでしたら、投げ銭をしてくださると大変ありがたいです!

うーたゃ

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