物語4
「今度さ、新しく会社をつくろうと思ってるんだよね。このスピーカーとかこれまで売ってきたモノって全部元々あるECサイトで売ってきた訳なんだけど、モノだけじゃなくてサービスまで広げていってもいいなと思って。まだまだ具体的じゃないけど、体験型のレジャー施設みたいなものがあるといいな。ホテルもありだと思う」
「それで」
話が大きくなってきたなと思う。妄想というより、葵はもうそこにいるんだと。
「おれもそこで何かをやらないかって話なのかな」
「さすが、鋭い」
葵の釣り竿はエサに食らいついた魚の振動を感じ取ったらしい。まぶたと両手の人差し指がピクリと動く。
「ケイもエンジニアになってそれなりに時間経ってるし、WEB系の知識もあるでしょ。おれもいるし、もう何人かいれば自分たちの会社のホームページとか何ならプラットフォームみたいなのは簡単につくれると思うんだよ。ケイだって頭はいいからさ、自分で何かを始めてみるのもいいと思わない?」
珍しくうわずった声で話す、頭はいいから、という言葉に軽蔑する響きはなかった。葵は使えるものがあるのなら、自分のために使えばいいと考えているのだろう。みんながみんな同じようにアイデアをもって、主体的に自分のために行動できる訳ではない。だけど私にはそれができるはずだ。それが自分のためになるのなら、やらない理由なんてないじゃない。そう彼は信じているのだ。だから人を軽く見ていない。
「…話は分かった。正直ちょっと楽しそうだなと思ったよ。でも今は真麻が一緒にいるし、自分だけで適当に仕事辞めてって訳にもいかないんだよね。だから少し考えさせてくれない?」
「それはもちろん。何でもいいんだよ、やるのは。別に何かフリーランスとかやりつつ片手間でこっち来るのもいいし。でも友達とかで集まってやれたら絶対楽しいと思うんだよね」
「それは間違いない。ある意味学生時代の延長っていうか、シゴトって感じで働くのとはまた違うよね」
「出張と称して海外のホテルとか取って遊ぼうよ、経費にできるし」
「パリピだ」
「人生は、一度きりでしょ」
葵の姿勢がよくなる。葵は冗談を言うとき身体をまっすぐ伸ばして正面を見るのが癖だった。さっきの言葉も何かのCMの真似だろうかと思ったが分からないので相槌だけ返した。
「また話進んだら連絡するからさ、ケイもいろいろ勉強しといてよ」
「オウケイ」
テーブルの上に転がしたスピーカーを無造作に掴んでリュックの中に入れた葵は髪をわざとなびかせるように頭で弧を描くように立ち上がった。
「そう言えば彼女とはもう別れた?」
「一緒にいるって言ったでしょうが」
「冗談。昨日から寝てないからさすがにちょっと眠くなってきた。またね。わざわざ来てくれてありがとう」
「こっちこそ」
いつの間にかタクシーを呼んでいたらしく、車がカフェの斜め向かいの道路に止まった。葵はじゃあねと言い、足元を見ずに歩こうとして歩道の段差に躓きそうになりながらタクシーに乗り込んで去っていった。
真夏とはいえ朝のテラス席は屋根で影になっているのもあって涼しかった。しばらくの間、今聞いた話を垂れ流すように思い出してはぼうっとしていた。二人組のおばあさんが店に入り、女子高生くらいの二人組がそれに続くように店内の「良い」席を見定めるように入っていく。カフェからは向かい駅の改札内も覗けたが、ホストたちはとっくにいなくなっていた。
九時半を過ぎたくらいで帰ることにした。カフェラテは丁度あと一口だけ残っていたので、コップごと顔を上げてそれを口の中に流し込む。昼ご飯は要らないと真麻に伝えたけど全然長居しなかったなと反省した。別に悪いことはしていないけれど。どうせ昼まで外にいたら自分には暑すぎるので、早く家に帰ろうと自分を急かしていることにする。入口のごみ箱にコップを捨てて駅の方に歩き出す。葵が躓きかけた段差は道路側に窪んでいるので、歩道側から引っかかりそうにはなかったので可笑しくなった。生活に関して言えばしかし、葵は私よりはるかに上手に歩いている。そのことで自分に対して無意識に引け目を感じているのかもしれないなと思う。私には自分の意識に先行する欲のようなものが欠けている。葵のように、それのためにそれ自体を実践するような欲望が。
私にはそういう根拠のない熱狂から距離を取ることがむしろ自然になっていて、それは理性と言ってもいいがむしろ惰性のように思えた。溜め込むことに慣れて、吐き出すことは長い間生理的な運動でしか達成できていないという感覚。一方で、私がそうならほとんどの人間はもっとひどい状態のはずだと思える自尊心のようなものもあった。周りが見えてしまうことによる視界の痺れ。目に集中しているのに何も見えていない恐怖が胸の奥にこびりついている。もしくは目自体に意識を向けすぎるがゆえに目の前のものを上手く捉えられないのかもしれない。
葵には、私やその他大勢に自分の生き方を伝えることが信仰の証明になっているようだった。それは単純な承認欲求だけのための行為ではなく、そう振る舞うこと自体が自分自身で自分を承認するための過程であり、パフォーマンスなのだ。私は、目下のところそれとは距離を置いている。だがそれと同時に、当然だが自分とは違う存在である彼への、自分とは違うということへの羨望が私の足首に巻き付いて動けなくなりそうだということも確かなことだった。
だから、私は電車に乗って彼に会いに来た。
日曜の朝に下りの電車を利用する人はほとんどいなかった。差し込んでくる日の光を正面で受ける席に座ったのに後悔したが移動はせず、イヤホンをつけて駅に着くのをじっと待った。
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