受け身のクレーマーを育てない
鷲田清一氏の本を読んでいたら、次のようなことが書かれていた。
現代社会で「わたしたちはきわめて多くのことがらを行政のサーヴィスや民間のサーヴィスに委託し」ており、そのために「それをみずからの手でおこなう能力を少しずつ失って」いる。そして「地域のもめ事一つも、解決のために周囲の合意をとりつけていくよう動くのではなく、役所に訴えるというような仕方で対応するように」なっている。また、「サーヴィスの受益者、サーヴィスの消費者としての意識があたりまえになっていて、生活に何らかの支障が生じると、それを『サーヴィスの低下』として行政もしくはサーヴィス業者に文句を言う、苦情を言うというふうに対応するようになる」。
クレーマーやカスハラが増加しているのはなぜか、という疑問に明確に答えてくれている。氏はクレーマーは「市民意識が高い人のようにみえますが、が、じつはとても受け身な行為だ」とし、「自分を市民(シティズン)ではなく、受益者や顧客、消費者だと勘違いしている」と指摘する。
このような意識のクレーマーに学校はどう対応するか、という喫緊の課題はあるものの、ここではそれは脇に置いておく。子どもを将来のクレーマーではなく「市民(シティズン)」に育てるために学校はどうすればよいか。身の回りの困りごとや「もめごと」を誰かが解決してくれる、と考えずに関係者と言葉を尽くして話し合い「落としどころ」を見つけていく力をつけていかなくてはならない。授業や学校行事で多様な人間関係を経験する中で、それは培われていく。自分たちの力で何とかできた、という経験を積むことで主体的に動ける人間が育っていく。兄弟姉妹が少なく、地域での活動も減った今の時代、学校という場の果たす役割は大きい。(コロナ休校の間、私たちはそれを思い知った。)
「安心・安全」な環境をつくることが学校の責任であることは間違いない。しかし、教員が「何かあった時に責任を問われること」を恐れるあまり、子どもたちが試行錯誤したり人間関係で悩みながら成長したりする機会を奪っていないだろうか。「いじめ防止対策推進法」の理念は理解しているし、法律に則って指導をするのが自分の務めであることも肝に銘じている。しかし、法律の定義そのままに、子どものちょっとした諍いにも介入し、少しでも嫌な思いをしたら即座に「守る」のが本当に得策なのか。健全な市民社会の形成のために、少し考えたほうがいいと私は思っている。