画面の向こうの音

 1年位前から、ある大学のピアノサークルがYouTubeにアップしたあるピアノ演奏の曲を定期的に、かなり病的に何回も聞いている。かなりメジャーな曲なのだが、再生回数はそんなに行って居ない。たぶん私1人で3割くらいは再生回数に貢献していると思う。今も、その曲を左耳に詰め込んだイヤホンから流しながらこの文章を書いている。

 この映像の何にそんなに惹かれるのか、いまいち説明できない。画質の荒い映像には、ピアノとそれに向かう大学生のピアノサークルの人物が一度もこちらを振り向くことなく最初から最後まで背中だけで曲が進む。
 多分場所は大学の食堂で、文字通り「ザワザワ」とした音が聞こえてくる。食堂の人たちはピアノの演奏がされていることに気付いているようで、妙にひそひそと話をしているように思えるのが不思議だ。聞き取れる会話は「ああ11時半やー」「さすがに~でしょ」などなど、本当に「普段」のお昼の食堂の会話である。その普段の食堂に響き渡るちょっとドラマチックすぎる曲はあまりに不釣り合いで、それでも周りの人々はピアノの方を見ることはない。5分と少しある動画の中で、映像に写っている歩いている人は2人だけだ。後の人もピアノの演奏など無いかの如く、仲間内で話をしている。そこに響きぬけるピアノの荘厳な音は、繰り返すが滑稽なまでに不釣り合いで、ヱヴァンゲリヲンで「今日の日はさようなら」が流れるよりも不釣り合いで、でもこの映像はピアノサークルのアップした動画だから、きっと後から編集で乗せた訳ではないはずで、それが「日常」なのだ。

 「日常の裂け目」という言葉を佐藤真監督が著書の中で使っている。「そこにポカリと開く日常の裂け目を覗き込む」というようなことを、ドキュメンタリー映画論の中で語って居られたのだと記憶している。このピアノ演奏もある一つの日常の裂け目を示唆しているのかも知れないと、ちょっと思った。
 寺山修司やそのほか多くの劇作家や芸術家が街中を相手に芝居や芸術活動をしている。それが日常の裂け目を指し示すのかは知らないが、人々が日常を過ごしているところへ急に非日常を突き付ける手法はなかなか興味深く、私はこれらの演劇の記録を面白く読んだりした。

 劇が「それ自体で一つの現象であるのではなく、私たちがその現象を通して、世界の存在を理解する手段だった時代」というのを、私たちは知っている。そして、今、劇は私たちがその現象を通して、世界そのものになってしまう手段として論ぜられるべき時代にさしかかっている、というのが、天井桟敷にかかわって十年間演劇活動をしてきた私の感想である。かつて、私たちは演劇に血なまぐさい祝祭性と見世物の栄光を復権しようと呼びかけたが、いまは「そうした現象を通して、あまりにも世界の存在が理解されつくされてしまった」という印象を受ける。(中略)歴史そのものを「私たちの演劇」として、記述し直そうとするのでなければ、面白くなんかないのだよ。
               寺山修司「迷路と死海」1993年 白水社

 この動画の曲について1つ指摘するとすれば、明らかに本家やほかにアップされた映像に比べてテンポがゆっくり演奏されている点が挙げられる。過剰なまでにゆっくり一音一音をあまりに丁寧に表現しているのだ。お客に聞かせるようにというよりも、お客に重さをかけて圧し潰すような息苦しさすら映像越しに感じる。まるで真夜中でもお構いなく12回鐘を鳴らす古い柱時計の如く。歴史の唸りがピアノを通じて、ブラックボックスと化したインターネット経由で私の左耳に注ぎ込まれている。私は消費者として、名前も知らないピアノサークルの奏者が紡ぎ出したこの曲を何回も何回も聞く。

 曲を静かに弾き終わった後、鍵盤から手が離れるところまでで動画は終わっている。拍手の気配など全くない。きっとこの動画が撮られていなければ虚空にただ一度限りの空気の振動として消えて行ったであろう曲は、幸いなことにアップロードから10年近くが経とうというのにまだインターネット上に存在していて、今も時々誰かに聞かれている。

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