「白雲節」の雲

 沖縄民謡の大御所に嘉手苅林昌さんという方がいる。枯節から花が咲くような声と、独特のリズムで三線を奏でる。ノリノリというよりは一音一音が積み重なっていくような拍子で、しかしご本人は微動だにせず直立して演奏するお姿が印象的だ。
 タイトルに書いた「白雲節」という民謡は、この方のCDを聞いているときに初めて耳にしたのだと記憶している。

 「白雲ぬ如に 見ゆるあぬ島に 翔び渡てみ欲さ 羽ぬ有とて 羽ぬ有とて」(民謡「白雲節」1番より)

 音を聞くだけだと何を言っているか分からない沖縄の民謡も、漢字かな交じり文に書き下すとかなり理解することができる。
(この漢字かな交じり文への書き下しについて少し脱線するが、映画監督の佐藤真氏が監督作『阿賀に生きる』を公開する前、これについて延々と悩んでいたそうだ。映画内で語られている阿賀の人々の会話が何を言っているか分からないと指摘されたことで「どうやってこの質感を保ちつつ、皆に理解してもらえるようにするか」色々工夫を重ねたという。小川伸介一門の字幕の付け方をはじめ苦心の末に結果として出たのが、発音するそのままを漢字かな交じり文で書き下すという方法であった。)

 純なる恋歌である。

「海の向こうにある、まるで白い雲のように見える島に、私に羽が生えていたのなら飛び渡っていけるのに」

 琉球諸語に明るくないので完全に正しい訳かどうか自信がないが、そういうニュアンスで私は理解している。
 その島に誰かがいるとは直接書かれていないが、飛び渡りたいのだからそこにはきっと愛しい人がいるのだろうと歌からすぐに推測できる。(2番以降の歌詞を読めば愛しい人が登場してくるが、ここでは詳述しない。気になったら是非曲を聞いてみて欲しい)

 具体的な情景を想像することは難しくない。昼間の厳しい日光の下、畑仕事に勤しんだ青年が手拭いで顔の汗を拭きながら、トンネルのようになったアダンの茂みを抜け、乾燥した柔らかなまだ暖かい砂を踏みしめ、残照の残る海岸に出る。足首まで海水に浸りながら、海の向こうに霞む白い雲のように見える島を眺めてあの島で出会った思い人を脳裏に浮かべる。「私に羽があれば、あの島まですぐに会いに行けるのに。」

 しかし、果たして島は白雲のように見えるのだろうか?

 多分見えないであろうというのが私の答えだ。海の向こうの島は白雲というより、雨をもたらす低い雨雲のように見えるか、あるいは島以外の何とも形容するのは難しいくらい、「島」として見える。おそらく作者もそんな事は百も承知なはずである。では、なぜ。

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(海の向こうに見える伊豆半島も、とても白雲とは言い難い。右の方に白雲と富士山が見えるが、富士山は白雲とも言えそうだ。〔撮影:筆者〕)

 ここからは完全な想像であるが、たぶんこの青年に実際には島は見えていない。そして思い人だって別の島に暮らす人ではなく、訳あって頻繁には会えない同じ島で暮らす人かもしれぬ。
 「白雲のように見えるあの島」というのは具体的な「島」というより、ある種おとぎ話のような「宝島」のような掴みどころのないふわふわとした、まさに雲のような存在を指しているのだろう。地上に縛られたゴタゴタや上手くいかないことから全て脱却し、重力を物ともせずに浮く雲。島から島へと風任せで流れていく雲。そんな雲に憧れを抱き、あるいはその憧れそのものが具体的な思い人に変わったとしても、それはおかしなことではない。

 島を眺める習慣(や環境)のない私にも白雲節が響くのは、いつか消えて飛び去ってしまう儚い白雲に夢や想いを託し、それが雲だと分かっていてもなお、そこに向かって飛んで行きたいと思う強い気持ちに共感できるからなのだと思う。

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