読書感想文『ゴリオ爺さん』

仏語タイトルLe Père Goriotは直訳すると『ゴリオ爺さん』ではなくゴリオ父さん。めぞん一刻をもっと小汚くしたようなヴォケール館の面々から親しみと嘲笑を込めて呼ばれる呼び名なので、父さんさんというより爺さんの方が邦訳的にはしっくりくるが、要は父性の物語なのである。本作はプルースト『失われた時を求めて』の3倍とも言われる広大な、バルザックの《人間喜劇》の一部であり、最も有名な作品といえる。フランス語では固有名詞として通用するほど浸透した主人公のラスティニャック、主題であるゴリオとその2人の娘、そして謎の男ヴォートランを大きな軸として、それぞれの物語が進行していく。人間喜劇においては、ラスティニャックはじめ関連人物が他作品にも登場しており、さながら手塚治虫のスターシステムのよう。本作においてはパリという壮大な舞台で登場人物がいきいきと動き回っている。荒木飛呂彦が、面白い漫画に大切なのはストーリーや演出よりも魅力的な登場人物であると昔、語っていたがバルザックの描く人間はリアリティがあり、思わず感情移入してしまう。
娘を愛するあまりに全財産を使い果たし、みじめな末路を辿るゴリオの姿には何とも言えない哀愁がある。ひどい娘達だと立腹するが、読み返すと娘を甘やかし過ぎてうんざりされている様子(父親に金を無心しにきたデルフィーヌはラスティニャックに父の鬱陶しさをはっきりと漏らしている)が目につき、家族においての教育のあり方について考えさせられる。最期の発狂ゴリオは何度も変身を繰り返し、本心では娘達の気持ちに気付いていたことを漏らす。「まさしくそれが子供なのだということは、死ぬ段にならなければわからない。(中略)あの子らが来るわけがない!そんなことは十年も前からわかっている。わたしだってときどき思うことはあった。しかし信じたくなかったんだ」ボロを纏い両目に涙を溜めながら最後の一滴まで娘に搾り取られた父親。壮絶。しまいには幻の娘を抱きしめて天国に旅立って行くさまは、あまりに残酷すぎて息を止めて見守ることしか出来ない。
様々なエピソードや人間関係が複雑に絡まり合い、物語の深みを増すものの、ラストシーンの簡潔さでビシッと締めてくれる。鮮烈なビジュアルイメージとともに200年ほど昔のパリの物語が、今日の東京に重なって見える。仏文を読みはじめたいと思ったならば是非お勧めしたい作品。

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