大河ドラマの「麒麟がくる」を見ながら十二国記の思い出を振り返る(4)<風の万里 黎明の空編>
大河ドラマの「麒麟がくる」を見ながら十二国記の思い出を振り返るシリーズ。「麒麟がくる」は、やっと放送再開のニュースが出ましたね!
ですが、麒麟といえば十二国記でしょ!と思ったあなた。
この記事は、十二国記ファンのための記事です。
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人は、自分の悲しみのために涙する。陽子は、慶国の玉座に就きながらも役割を果たせず、女王ゆえ信頼を得られぬ己に苦悩していた。祥瓊(しょうけい)は、芳国(ほうこく)国王である父が簒奪者(さんだつしゃ)に殺され、平穏な暮らしを失くし哭(な)いていた。そして鈴は、蓬莱(ほうらい)から辿り着いた才国(さいこく)で、苦行を強いられ泣いていた。それぞれの苦難(くるしみ)を負う少女たちは、葛藤と嫉妬と羨望を抱きながらも幸福(しあわせ)を信じて歩き出すのだが──。
この作品は、控えめに言って「最高傑作」だと思います。できるだけネタバレなしで書きます!
慶の国王として国の統治をどのようにすればいいか悩む陽子。
芳国の公女を追われ、市民としての境遇に苦しむ祥瓊。
言葉もわからない才国で、雇い主から虐げられ続ける鈴。
この3人の少女たちが、自分たちの心境と運命を変える人たちに出会い、悲しい別れを経験しながら邂逅し、未来に向かっていく、というお話です。
ーこれは、3人の少女の成長の物語。
この作品の素晴らしいところはいくつもあります。
1.景王陽子に対する、祥瓊と鈴の心境が全く逆に変化していく
前編、同じ蓬莱出身の景王に対して、鈴は憧れと期待を抱き、助けてもらおうとします。逆に、祥瓊は自分が追われた王室に鎮座する景王を恨み、簒奪することを考えます。
しかし、2人はそれぞれ自分の心を大きく変える人物に出会います。
後編、鈴は景王を恨み、祥瓊は景王を助けようと、大きく心境が変わっていくのです。
2.3人の少女が出会う大切な人たち
景王が朝廷を出て出会ったのは遠甫という老賢人。遠甫は、民の生活を陽子に説明しながら、王がやるべきこととは何か、道を説いていきます。
鈴は才国から出て清秀という少年に出会います。自分を憐れむばかりの鈴に清秀は手厳しい言葉を投げかけながら、2人は一緒に慶国に向かいます。
誰かが誰かより辛いなんて、うそだ。誰だって同じくらい辛いんだ。
祥瓊は里を追われ、慶国に向かう道中で楽俊という半獣の青年に出会います。彼が景王の友人であること、景王もまた悩みながら今の立場についたことを知ります。そして、公女として自分が果たすべきであった責任の重さに気づきます。
なんの努力もなしに与えられたものは、実はその値打ち分のことをあんたに要求してるもんだ。祥瓊はそれを分かっていなかった。だから、憎まれる。
3.陽子、祥瓊、鈴の運命が交差する
3人はそれぞれが自分の目的を追っている中で、自然に出会いを果たしてしまいます。祥瓊と鈴にとって陽子は、悲喜入り混じった焦がれる相手。その陽子に2人は本人と気づかず交流をし、ある時その相手が自分が求める景王だったということに気づくのです。
出会った場所と状況は3人にとって危機の場面。でも、フフッと笑いあうんですよね。
4.陽子は王として、元公女 祥瓊、琶山翠微洞の鈴が過去を乗り越える
邂逅した少女たちが危機に陥った場面、陽子は麒麟に乗り戦場へ。待つ祥瓊と鈴が、混乱する民衆に向けてそれぞれ自分の過去の立場を踏まえて放った言葉たち。
「我は芳国は先の峯王が公主、祥瓊と申す。――一国の公主が王に面識あってはおかしいか。我の身元に不審あれば、芳国は恵侯月渓に訊くが宜しかろう。先の峯王が公主、孫昭をご存じか、と」
「あたしは才国琶山が主、翠微君にお仕えする者です。采王自らの御達しあって慶国は景王をお訪ねしました。不審あらば長閑宮に問い合わせてごらんなさい。御名御璽に不審あればの話だけれど」
娘たちは晴れやかに笑う。
これは、2人が辛い過去を乗り越えた証でもあります。
一方、戦場に向かった陽子。彼女が戦場で王気を放ちながら凛と下す言葉は強く輝いていました。
「――迅雷」
「誰の許しを得て、拓峰に来たか」
「どこの王の宣下あってのことだ」
「勅命をもって命ずる。禁軍を率いて明郭に趣き、和州侯呀峰を捕らえ、州城に捕らわれた遠甫という瑛州固継の閭胥を助けよ」
「一軍を堯天に戻らせ、靖共の身柄を押さえろ。無事靖共、呀峰を捕らえ、閭胥を救命すれば、今回のことは不問に処す。禁軍兵士も、和州州師もだ」
5.名言の数々
十二国記はもともと名言が多いですが、この風の万里 黎明の空は珠玉の言葉ばかりです。
生きるということは、嬉しいこと半分、辛いこと半分のものなんですよ。
人が幸せであるのは、その人が恵まれているからではなく、ただその人の心のありようが幸せだからなのです。
苦痛を忘れる努力、幸せになろうとする努力、それだけが真に人を幸せにするのですよ。
これは采王黄姑が鈴に向けた言葉です。これは人生の真理と言えるのではないでしょうか。不幸になる人は、何かと理由を見つけて自分が不幸であろうとする。幸せになる人は、自分で幸せになろうとするから幸せなんだってことを学びました。
人はね、景麒。
真実相手に感謝し、心から尊敬の念を感じたときは、自然に頭が下がるものだ。礼とは心の中にあるものを表すためのもので、形によって心を量るものではないだろう。
礼とは心の中にあるものを表すためのもの。形だけ取り繕ってもそれは礼ではないんですね。
「あなたを危機から救う一分間謝罪法」という本に、「人に謝る上で最も難しいのは、自分の過ちを悟り認めることである。ほんとんどの問題の核心にあるのは、あなたが直面したがらない真実である。真実に向き合うことを避けた時から、抱える問題はすべて手に負えなくなる。自分に対して正直になる一分間は自分をあざむきつづける数週間、数年、数十年よりも価値がある。」とありました。少し似てるな、と感じます。
次は清秀の言葉。
「ねえちゃん、自分が好き?自分のこと、いいやつだって思う?だったら、他人がねえちゃんを嫌うの、当たり前だと思わないか?しょせん人間なんて、自分が一番、自分に甘い生き物だろ?
その自分ですらさぁ、好きになれないような人間を、他人に好きになってもらうなんての、ものすげー厚かましくないか?」
数々の名言がありますが、一番好きなのは次のこの言葉です。
人は誰の奴隷でもない。そんなことのために生まれてくるのじゃない。他者に虐げられても屈することのない心、災厄に襲われても挫けることのない心。不正を正すことを恐れず、獣に媚びず…
…私は慶の民に、不羈の民になってほしい
己と言う領土を治める、唯一無二の君主に。」
不羈の心を持ちたい。と強く思います。
思うだけでなく行動を起こします。
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