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文化・贈与・いかれた人々
みたかの弁明ふたたび
この記事は、マンドローネ Advent Calendar 2024のために書き下ろしたものである。
しかし正直に申し上げるなら、この記事はマンドローネについて真正面から取り扱ったものではない。
悲しいかな、私はマンドローネを弾いたことも、マンドローネのいるオケを指揮した経験も殆どないのだ。
確かに、私がボッタキアリを聞き、論じ、愛でるとき、私の頭の中には常にマンドローネの音が鳴り響いていた。
しかし如何せん実地の経験がないのである。
にもかかわらず、下手にマンドローネのことを我が物顔で論じてしまえば、全国のマンドローネ奏者から非難轟々、マンドリン会における私の立場は風の前の塵に同じく消え去ってしまうだろう。
語りえぬものについては,沈黙せねばならない。
ならば、私が語りうることについて語ろうではないか。
昨年執筆したマンドローネ Advent Calendar 2023では、オーケストラという形態に顕著に見られる、音楽の持つ負の側面について論じた。
この「負の音楽論」は、音楽が異質な他者どうしを結びつけ得ることについて論じた、いわば「正の音楽論」ともいうべき小文と対になるものであった。
今年のテーマは、ずばり贈与と文化である。
なぜ「贈与」なのか、理由は後々明らかとなる、かもしれない。
与えられること、受け継ぐこと、与えること
私がある文化の一端を担っているという事実そのものが、その文化が私へと継承されるまでに不可欠であった、無数の他者の存在を指し示す。
私は今、マンドリンを(趣味として、部活動として、仕事として)弾いている。
「私がマンドリンを弾く」という行為は一見、私一人で完結している。
しかしながら、私が今マンドリンを弾くことができるためには、楽器を作った人、ピックを製造した人、マンドリンを販売してくれた人、目の前にある楽曲を作曲した人、私に楽器の弾き方や取り扱い方を教えてくれた人、等々が存在しなければならない。
私に楽器の弾き方を教えてくれた人にも、演奏方法を教えた別の人物がいるだろう。そしてその人にもまた演奏法を教えた人がいて、さらにその人にも…。
このことは、楽器を作る人にも、作曲する人にも、当てはまるだろう。
世代を越えた文化の継承。
僕は、高校からマンドリンを始めた。
僕に楽器の弾き方を教えてくれたのは、マンドリンクラブのチェロパートの先輩だった。
一年後、チェロパートに後輩が入ってきて、今度は自分が教える側になった。
僕にチェロの弾き方を教えてくれた先輩は、演奏の仕方を教えることの対価として、僕に何かを要求することはなかった。
このことは、(プロのレッスンを受けている人などを除く)多くの人たちにとって、特段不思議なことでも何でもないだろう。
しかしながら、何かを対価として払って何かを得る「交換の論理」が、僕たちの生きる社会では支配的である。
だとすると、対価を支払うことなく何かを「もらう」というのは、よくよく考えると不思議なことである。
贈与とは、簡単に言えば、贈り物のことだ。
私たちが誰かに贈り物をするとき、贈り物をした相手からの返礼を期待して贈り物をすることは、あまりない。
例えば小さな子供のいる親は、クリスマスプレゼントという贈り物を、サンタクロースという別の贈り主を設定して、子どもへと贈る。
子供からの返礼を期待するのであれば、贈り主として自分(たち)の名前を明示するだろう。
でも、あえてそうしない。
贈り物を贈る側は返礼を期待していないことが多いけれども、贈り物を受け取った側は、プレゼントを贈り返すことが多い。
なぜか?
それは贈り物が、受け取った側に負い目の感情を引き起こすからだ。
「与えられてしまった」という引け目は、贈られた側が贈る側になることへの動機になる。
そうして、負い目の感覚が次の贈与に繋がる。
(だからこそ、「タダより高いものはない」のである)
贈り物の返礼先は、必ずしも元の贈り主とは限らない。
マレーシアで出会ったひとが、私に言った言葉。
「あなたが今受けた恩を、私に返そうとしないで。
その分は、次に出会う別のひとに返しなさい」
TABIPPO編『僕が旅人になった日』p. 74,ライツ社.
「歩き切って聖地に辿り着いた時、すぐにわかった。ああ、私の今やるべきことは、この道で自分と同じように歩いてきた巡礼者に、今までの人生で受け取った恩恵を返すことなんだって
〔……〕
バスケットの試合でボールが回ってきたみたいに、誰かにそれを投げ返すのが、今、たった今の自分の役回りだと感じたのよ」
贈与は同時代的にも人々を結びつける。
しかしそれ以上に興味深いのは、返礼によって相殺されることのない贈与が世代を越えて受け継がれることで、時間を越えた人々の結びつきをもたらすことだ。
たとえ、私に贈り物をしてくれた人と、直接に結ばれることはないにしても。
冒頭の言葉をもう一度見てみよう。
私がある文化の一端を担っているという事実そのものが、その文化が私へと継承されるまでに不可欠であった、無数の他者の存在を指し示す。
サンタクロースの名のもとに贈与する親は、おそらく、自分の子が次なるサンタクロースになることを、暗に期待している。
では、親は何をもって自分の愛の正当性を確認できるのでしょうか。
子がふたたび他者を愛することのできる主体になったことによってです。
自分が引退した部活の部屋を久々に覗いたとき、一回り成長した後輩の姿を見た時の、あの頼もしさと、一抹の寂しさ。
私がある文化の一端を現に担っている、という事実そのものに、無数の他者からの贈与がある。
私は「贈与-されるもの」から、「贈与-するもの」になろうとする。
贈与の宛先は、私に贈与してくれた人かもしれないし、未だ見ぬ他者かもしれない。
重要なのは、贈与が時間を越えて、人々を繋ぐということだ。
贈与されるのはモノだけではない。
知識も、技術も、想いも、贈与される。
そして文化というものはきっと、そういう風にして受け継がれてきた。
マンドローネの文化も、マンドリン合奏の文化も、きっとそうだ。
僕たちはすでに、贈与されている。
問題は、いかにして僕たち自身が、「贈与-するもの」になるかだ。
いかれた人々の輪
マンドリンの世界は、いかれた人が多いな、と思う。
マンドローネに話を限っても、ローネだけでn重奏をやったり、ローネベースサミットなる会合を催したり、はたまたアドベントカレンダーのような企画があったり、なかなかいかれている。
ところで、「いかれてる」とは何だろうか。
奇人の条件は、効用とか意義といった「合理」とは無縁の行動をとるということ。〔……〕
だれかに惚れ込む、美しいものにいかれる、〔……〕身を滅ぼすこともいとわずとことんを貫く。
「いかれた」人は、単におかしな人のことを指すのではない。
「いかれた」人とはたぶん、何かに心を持って「いかれた」人のことだ。
心を持って「いかれる」ほど魅力的なものに出会ってしまったから、「合理」とは無縁の行動を取ってしまうのだろう。
心を奪われること、虜になること、没入すること、我を忘れること。
それが「いかれる」ことだ。
そして文化は、そのような「いかれた」人を絶対に必要とする。
文化は、損得をこえてその文化に入れ込む(≒虜になる)人が少なからず存在することで継承されていくんだってことに、とある古本屋に入って気づきました…
— みたか (@alla_deriva_) April 8, 2024
わたしたちは多分、たったひとりで「いかれる」ことはできない。
既に「いかれて」しまった人がいるからこそ、その人を間近に感じる中で、私たちも存分に「いかれる」ことができるのだ。
その意味で「いかれた」人は、その存在そのものが贈与である。
「いかれた」人は、「いかれる」ことそのものによって文化を継承し、次の世代へと受け継ぐ贈与主体となる。
周りの人たちは、「いかれた」人に「いかれる」中で、次なる「いかれた」人になる。
若年層におけるマンドリン人口の減少が話題となって久しい。
今現在、文化を担っている人々がどれだけ活発に活動しようとも、バトンを受け取る人が存在しなければ、その文化は必然的に衰退し、やがて消滅するだろう。
だから僕たちは、マンドローネの、ひいてはマンドリン族の楽器の文化を途切れさせないために、過去を踏まえ、現状を分析し、来るべき将来を思い描きながら、理知的に施策を講じていく必要がある。
しかしそれでもなお、僕たちが忘れてはいけないことがある。
それは、何よりもまず、僕たちが堂々と「いかれて」いることだ。
私たちは、胸を張って、意気揚々と、いかれていよう。
他人を「いかれさす」には、まずもって私たち自身が、存分にいかれないといけないのだから。
理知的でありながら、いかれ続けること。
いかれた人が存在する限り、いかれた人々の輪は広がり、いかれた人が新たに生まれ続けるだろう。
いかれた人々の輪が、これからも、いつまでも、存在し続けますように。
2024年12月24日 世代を越えた贈与の日に
みたか