子どもの幸せを軸に家族を再構築する(V1.0)
要旨
①「先ず初めに、子供達の幸せを定義する」
・子供の幸せとは人間の幸せであり、人間の幸せとは「共同体と一体」になる事である
②「次に、未来がどの様な時代になるかを考察する」
・10年先でさえ未来は不透明であり、未来は誰にも分からない
③「① ②を基に、子供達がどの様な人間になると幸せになれるのかを考察する」
・今日を皆と一緒に生きながら、自分の中から喜びを見いだせる
④「③を実現する為に、自分が行う事について記載する」
・機能ではなく存在に感謝する共同体になりながら、明るい過去と未来を目指して、共に生きる事である
1.子どもの幸せとは?
一般で言う「子どもの福祉や子どもの幸せ」という言葉は「子ども時代の幸せ」を意味すると感じているが、自分は、これに違和感を感じている。
何故ならば、年齢によって子どもを定義しており、これは年齢差別である、と感じるからである。例えば、世の中には年齢的に大人であっても、足し算引き算が出来ない人もいる。逆に子どもであっても、大学卒業レベルの学力を持った子どももいる。これは年齢によって持っている能力を定義しており、それによって優劣をつけている、という年齢差別である。(年齢差別なら、定年退職も年齢差別だ、という意見もある。そもそも人生100年時代で健康年齢も延びている事、年齢という平均で語り個々人の能力に向き合わない事は差別的だ、と感じる)
自分は、自分の子どもの幸せを考えた時、子どもが人生を終えるまでの幸せ、だと感じる。それは、子ども達が年齢的に大人になったら自分の子どもでは無くなる訳では無い。つまり、人間の幸せを考えるのと同義である、と感じるからである。
つまり自分にとって、子どもの幸せとは「人生を終えるまで幸せに暮らして行ける事」である。
子どもの幸せとは人間の幸せである、とした時に、では、人間とは何か?と考えた。
ユヴァル・ノア・ハラリは「人間とは虚構を構築し、共有し、分業する能力によって食物連鎖の頂点に立った生き物である」と表現した。
虚構とは何か?
例えば、伝説、神話、宗教、貨幣、国家、国民、家族、企業、法制度、人権、平等、自由、民主主義、資本主義、道徳などであり、ユヴァル・ノア・ハラリは「痛みを感じない」と表現した。オードリー・タンはこれを「コード」と表現し、リオタールは「大きな物語」と呼んだ。色々な表現で呼ばれているが、自分は「大きな物語」が一番しっくりくる。
分業とは、現代でいうなら、1次産業、2次産業、などであり、様々な仕事で社会が成り立っている、と考えると分かりやすい。ただ現代は複雑化しているので、もっと古来にさかのぼるか、もっと身近な範囲で考えるとより分かりやすいと思う。
自分の生活は何によって支えられているだろうか?もし自分ひとりだったら生活できるだろうか?と考えて見る。
例えば、コンビニが無かったら?スーパーが無かったら?車が無かったら?テレビが無かったら?スマホが無かったら?水道がなかったら?ガスがなかったら?電気が無かったら?と考えた時、それだけ分業を行っている、つまり様々な役割を担う人によって自分の生活は成り立っている。因みに、それらが無くても人は生きていける。その証拠に、過去それらが無くても生きていけていた。そもそも人類は元々は狩猟民族であった。
もう一度言うと、そもそも人間は「虚構を構築し、共有し、分業する」能力を持っている。それにより「食物連鎖の頂点に立った」とユヴァル・ノア・ハラリは言う。
つまり「人間は虚構に縛られた社会的な生き物」であり、そもそも人間(厳密に言えば、ホモ・サピエンス)という種が生まれながらに持っている能力である。
ならば人間にとっての幸せとは「共同体と一体になる事」であると考える。
2.子供が大人になった時、どの様な時代になっているか?
子どもの幸せとは、生れてから死ぬまでの間であり人間の幸せと同義である。そして人間の幸せとは、共同体と一体になる事である、と前章で述べた。
では、これからの子どもが大人になった時、どの様な時代になるのか?
これについては、いわゆる「知の巨人」とされる人々が様々な提言をしている。そしてそれらの人々は一貫して、科学技術、しかも急激なスピードでの科学技術の発達が影響している、と述べている。
医療技術発達による長寿化により、マルチステージの時代となる
現代は「人生100年時代」と言われている。そして人生の内で、生き方が何度も変わる時代である。
昔は、一度教育を受けたらそれが生涯変わらない時代であった。
現代の科学技術の急激な進化を鑑みると、その時に合わせて何度も教育を受ける時代になる。これをリンダ・グラットンは「働き方はマルチステージへとシフトする」と表現し、教育と労働が何度も繰り返される時代になる、と言っている。
これは長寿化だけでなく、科学技術の発達により、我々の生活環境が何度も変化する、という意味でもある。
新技術(AI・ロボット・バイオテクノロジ)台頭による「役立たず階級」の大量発生
ユヴァル・ノア・ハラリは新技術台頭により、「役立たず階級」が大量発生する、と述べている。これは、AIやロボット等が現代の人間の職業を奪う、という意味である。
近年AIにより無くなる職業、というのが盛んに言われているが、これは誤解がある。何故ならばその職業に就く人は居なくならない。例えば、翻訳家という職業は無くならない。AIは取扱説明書を英語に翻訳する事は出来るが、村上春樹の小説を英語に翻訳する事は出来ない。つまり翻訳家という職業は無くならないが、プロ野球選手並みにそれを職業にする事が難しくなる。つまり「少数のプロフェッショナルだけが必要になる」という時代であり、これは「個人がある一定レベルの能力を持っていたら職に就ける事を保証しない」という事である。もう少し言うなら、絶対評価ではなく、相対評価で上位何人まで、という時代になる。
産業革命で例えるなら、馬の代わりに車が台頭した時、人間は御者(馬車に乗って、馬をあやつって走らせる者)から運転手に変われば良かった。
現代では、人間は産業革命時代の馬と同等になる、という事である。
つまり労働力不要の時代となり、大量の失業者が発生する。そしてこれは現代のグローバル化を鑑みると、日本国民全員が「役立たず階級」になる、という可能性もある。
そしてもう一つ、富の一カ所集中、という話がある。
これは現在でも既に発生しており、2016年段階で「資産上位62人の合計=下位36億人の合計」という数字があり、更に拡大する、と言われている。これは上記の「役立たず階級の大量発生」を考えても、拡大すると考えられている。
現代で起こっている格差社会は何が起因しているのか、というと「資産の差」である。「お金に働かせる」という表現があり、近年盛んに言われているが、その事を指している。つまり「生まれた家が資産家なら、その資産を運用してより多くの富を生み出す」という図式であり、今後は更に加速するであろう、という事を示唆している。つまり「マタイ効果」により、格差社会が更に加速する、という事であり、現代版の階級社会(日本で言うなら士農工商)が起こりつつある。
因みにこの事象だけを捉えてマタイ効果を全否定する、というのは、現代の公正、公平、自由主義自体の否定である。マタイ効果は現代社会のあらゆる所に存在する。最も分かりやすい例は「ノーベル科学賞を取った人の所に科学研究費が沢山集まる」というモノである。マタイ効果を全否定する場合、過去に誰が何をしたか、は常に問われない。それが公正・公平な社会である、とは現代社会では定義していない、と思われる。その他にも、マタイ効果の否定は、今までそれにより利益を被っていた様々な分野の問題を引き起こす。「たまたま運が良かっただけだよね」という事象はこの世の中、あらゆる場所に存在する。
さてこの格差社会では、大量の貧困層をどうするか?が問題となる。
ベーシックインカムで補う、という手もある。
現代では有効かもしれないが、大量の「役立たず階級」に対して「あなたはいらない人です。十分にお金あげるからね」とお金を貰い、それで幸せに生きていけるのだろうか?
衣食住さえ満足出来れば、それで充分なのだろうか?
つまり人間の尊厳に対して、どう考えるのか?生きる意味をどう見出すのか?という問題である。
また、少数の富裕層に対して大量の課税を課す訳であるが、彼らの搾取感をどう取り除くのだろうか?少数の不幸の上に多数の幸福を構築する事は正しいのだろうか?そしてそれは自分がその少数側に立った時、同じことを言えるのだろうか?
結論を繰り返すと、ユヴァル・ノア・ハラリは、未来は「労働が富を生まない時代である」と言った。
まとめ
子どもが大人になった時の日本は以下のような状態になっている、と言われている。
● 雇用:新技術台頭による影響により、減少する
● 税収:雇用減少の為、税収は減少する
● 所得格差:新技術台頭の影響により一部富裕層に富が集中する
● 社会福祉費用:失業率の増加に対する手当や年金などにより、増加する
● 個人に要求される能力:高齢化、新技術台頭の影響により、個人に求められる能力は増加する
● 高齢者:医療技術の発展により長寿化している為、高齢者は増加する
今、そしてこれからの時代は、人類史上初の変化が急激に起こっている時代である。
産業革命及び資本主義以降(政治・経済・科学の3軸で社会が回るようになってから)かつてない勢いで成長をとげている時代である。それがどれだけの速度であるかは、世界人口推移を見ると、とてつもない速度である事が分かると思う。
インターネットの普及により「共有する力」が加速されており、世界規模で変化の速度が上がっている。今やっている職種が10年後には無くなっているかもしれない。
例えば、1989年、世界の時価総額ランキングで日本企業は32社入っていたが、2019年には1社のみ、である。1989年の花形産業はなんだったろうか?そして現在は?と考えてみるとどうだろうか?この差たった20年、である。
この後20年、今の状態が安定する、この後100年、今の状態が安定する、と考えるのは少し楽観的すぎる気がする。
そして、このペースで世界が変わって行った場合、また新しい技術によって更に加速された場合、我々はついていけるのだろうか?
そもそも人間はこれほど早いシフトについていけるように出来ていない。何故なら、今までゆるゆると成長してきたからである。
昔(産業革命以前)は、人の一生のうちに生き方は変わらなかった。「老害」と呼ばれる人はいなかった。何故なら、若者がこれから進む人生は老人がこれまで進んで来た人生と大差なかったから、ロールモデルとして役に立った。そして現代では、老人の生きてきた道はこれから生きる道にはなり得ない、と思われている。(温故知新で考えればそんな事はないが、それを理解している人は少ない、と思われる)
ではこの急激なシフトを否定するのか?それは科学技術の発展を否定する、という事であり、つまり医療技術の発展の否定、でもある。例えば「死にたくない」という願いに対してどう回答するのか?急激なシフトを理由に拒否するのか?命でなくても、腕がなくなった、足がなくなった、目が見えない、耳が聞こえない、という問題に対して、どう回答するのか?そもそも科学技術を発展させる動機の一部は「人助け」である。これに対してどう回答するのか?
もし、それでも変化を抑制する事を望むなら、最も手っ取り早い方法は、「インターネットの使用禁止」である。これを世界的に、それが無理なら日本だけでも、法整備すれば良い。
恐らくそれは出来ない、と思う。
これらの事から、未来に対して唯一言えるのは
「世界が余りにも複雑になりすぎて、10年先ですら不透明な時代であり、未来は誰にも分からない」
という事だけである。
3.子供達がどの様な人間に成長する事を期待するのか
前章までで、人間の幸せとは、「共同体と一体となる事」であり、「未来は誰にもわからない」という事だと述べた。
ではそのような中で、どの様な人間に育てば、幸せな一生を送れるようになるのか?
自分は、「自立」「自律」「変化適応力」の3本柱である、と考える。
自立とは何か?
これは「自分の人生を生きる」という事である。経済的自立ではない。
ありのままの自分を受け入れ、自分の価値を自分で決める事が出来、自分の物語を自分で構築し、自分の人生を自分で決めていく。
つまり、他人の価値観に服従、転倒するのではなく、自分の価値観を自分で構築し、それに従って生きる、という事である。
これについては「すっぱいブドウ」という話で考えるのが分かりやすいと思う。
お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。
これは転倒について説明する際によく使われる例である。
どうしても葡萄が欲しければ、他にも手を使って葡萄を手に入れれば良いし、それでも手に入れられないのであれば「手に入れられなかった」と素直に受け止めれば良いだけの話なのだが、狐は「すっぱい葡萄」と葡萄自体の価値観を転倒させ、自己正当化した、という話である。
ニーチェはこれを「ルサンチマン」と名付けた。
現代社会では「皆が良いとする価値観」がある。
例えばお金持ちを良いとする価値観である。(他にも公正世界仮説や道徳など)この様に他者が良いとする価値観に対してルサンチマンを抱えた場合、人は服従(皆が良いと言っているから良い、皆がやっているからやる)か、転倒(お金持ちは悪い事をやっているに違いない、政治家は全て悪い奴だ、など)を行う。
そのような生き方は自分を騙して生きる事になり、それは自分自身を否定して生きる事となる。その様な生き方は、昔と比べ、現代では非常に生き難い生き方になっている。
昔は人は生まれによって規定されていた為、ルサンチマンは今よりは貯めにくい生き方であった。また、ニーチェは現代の弱者救済はキリスト教から来ており、その前身のユダヤ教の歴史を鑑みるとルサンチマンから発生しており、それは人間本来の姿からは離れている、と語っている。また、アドラー心理学でもそれは肯定されている。但しそれは弱者救済の否定ではなく、人間本来の生き方から反れている、という意味である
21世紀は多様性の時代とオードリ―・タン、ユヴァル・ノア・ハラリは言う。
多様性の時代とは何か?
金子みすゞが言う「みんな違って皆が良い」世界だと思って良いのだが、実はそれほど耳障りが良い世界、ではない。
構造主義(クロード・レヴィ=ストロース)や大きな物語(ジャン=フランソワ・リオタール)で考えると、我々は共同体が信じる虚構の上に自己を形成している。
構造主義では言語からアプローチしてそれを証明した。ボーヴォワールはフェミニズムの文脈のなかで「性差別はとても根深く、血の中、骨の中に溶け込んでいる」と表現した。
この大きな物語とは、昔々は神であった。共同体単位で異なる神が存在し、そしてその分だけたくさんの物語が存在した。そこから支配者から国家に、そして科学の時代へと、共同体は拡大の一途を辿っていき、そのうち世界に国家が1つになるような勢いだった。(科学の登場により、世界全体で共有できる普遍的な物語が構築出来るようになった事もある)しかしながら、二次大戦の全体主義(ナチスやイタリア、日本帝国など)に対する問題意識から、現代は縮小の一途を辿っている。つまり、個人に還元されている最中である。
つまり、多様性というのは「物語を個人に還元する」という事であり、共同体が共有する物語を個人のレベルまで小さくする、という意味である。
これは「何にもよらず自己を形成する」という事であり、自己を形成する為のロールモデルの否定(極論するなら言語の否定)を意味する。更に言うと、異なる物語間ではより強い葛藤を招く。これを指して「これからは分断の時代」とも言われている。(物語間の葛藤は、人類史の中で戦争という形で出現している。但しこれは戦争の一面であり、全体ではない)
つまり、多様性の時代とは、人間の持つ「虚構を構築し、共有し、分業する」という能力に対する否定、である。
にも関わらず、自分は、自立に拘るべきであり、他人が決めた価値観や生き方ではなく、自分自身の物語を自分自身で構築する事、に注力する事が重要である、と考える。
それは、いつどう変わるのか分からない物語に自分を委ねるのではなく、変わらない人間本来の姿に委ねる方が、人間として生きやすいのでは無いか、と考えるからである。
人間は本来、劣等性の克服という機能を有して生れてきている。それは寝たきりの赤ちゃんが立てるようになり、しゃべれるようになり、歩くようになり、足し算引き算が出来るようになり、そして社会に出て、いつか死ぬ。
つまり、人間とはそもそも強者になろうとする意志をもち、行動するように出来ている。
そこに、現代の公平の名の元の優劣感や物語が出てきて公が個人を否定するものだから、劣等性を拗らせ劣等コンプレックスを引き起こし、その結果として引きこもりや社会不適合者、と呼ばれる人を作り出している。
つまり、自立とは、人間生来もつ「劣等性の克服」という能力に従って生きる、と意味である。
自律とは何か?
これは「One For All、All For One」(一人は皆の為に、皆は一人の為に)という事である。
自己中心的なライフスタイルではなく、他者と共に生きる事である。これをアドラー心理学では「共同体感覚を育てる事」だと表現した。
つまり、「貴方は私に何をくれるのですか?」ではなく「わたしは貴方に何を与えられるか」を考える事、である。
ユヴァル・ノア・ハラリは人類史の観点から人間を「虚構を構築し、共有し、分業する能力により食物連鎖の頂点に立った生き物である」と表現した。アドラー心理学では、「共同体感覚は人間が生来持っている能力である」と言っている。これは、そもそも人間が生まれながらにして持っている能力なのである。
現代日本は、民主主義、資本主義、科学技術の三本柱で回っている。そして、自由、平等、公平という大きな物語がある。我々はその物語の中で生きており「人と商品の決め方はイコール」で生きる事に慣れてしまっている。
例えば、1時間働いた人と100時間働いた人、全く同じ給料だったとする。これは公平だと感じるだろうか?100時間働いたけれど1時間働いた人と同じ給料だったら「不公平だ」と感じないだろうか?その証拠に共産主義は現代では失敗例になっている。
我々の公平とは、「学歴や会社名、労働時間、売上、TOEICが何点だ、資格をどれだけもってて」等、そういった「分かりやすい差異」を決める事で「公平だ」と言っている。そしてその価値観の中で優劣を決めている。
誰かが誰かを評価する時「貴方は私に何を提供してくれるのですか?」と問うている。
誰かが誰かに自己アピールする時、商品と同じやり方を採用している。
つまり、商品と同じように個人の持つ機能に重きを置き判断する生き方を採用している。
そしてこれは「落ちこぼれ」を生む生き方であり、将来誰もが「落ちこぼれ」になる生き方である。何故なら誰もが、年を取り体が思うように動かなくなり、そしていつか何も出来なくなるから、である。
つまり、現代日本の公平は、自由・平等・公平・自由主義・資本主義の名の元に、機能論的人間観を構築し、その物語の中で生きている。
自分はこれが個人主義の本質であり、現代は個人主義の時代である、と考えている。
そしてココで言う「自律」はそれの否定、である。
元来人間は、存在そのものに感謝されて生れてきた。
生まれたばかりの赤ちゃんに何らかの機能を期待するだろうか?「貴方は私の為に何をしてくれるの?」と問いかけるだろうか?そもそも人はそういうモノでは無かっただろうか?という話である。
つまり「私は貴方の為に何が出来ますか?」という事である。これを存在論的人間観、という。
「私は貴方の為に何が出来ますか?」は「自己犠牲」ではない。「忘己利他」とも少し違う、と感じる。
「自己犠牲」は他者による搾取であるが、これでは自分が持たない。他者の為に在り続ける事が大切であり、その為にも己を忘れる訳にはいかない。
自分が元気だからこそ、他者の為に在り続ける事が出来る。長期的に見て、それが他者の為になる。
そして自分が他者の為に何かを提供し続けるとは「いま私が生産出来るモノを他者に与える」という事であり、それは私の中から無限に生産出来るなら、いくら他者に与えたとしても、尽きる事はない。(厳密に言えば時間は有限なので、無限に提供出来るモノは存在しないが)
例えばお金を無限に出せるバックがあれば、他者に与える事に不満を感じるだろうか?毎日5兆円手に入るなら、毎日1億円寄付する事に戸惑いを感じるだろうか?
みんなが「私はあなたの為に」を考えるなら「みんなが私の為に」が成立する。
みんなが存在論的人間観に立ち、お互いが持っているモノを贈与しあう事が出来るなら、この世界は実現する。
人間は、元々苦痛を続けていく事が出来る様には出来ていない。人から認められること、喜ばれる事に対して、嬉しいと感じるように出来ている。
そして多様性の世界では、人それぞれ楽しいと感じる事が異なる事が認められている為、同じように世界は進化する事が出来る。
そしてそれは、予定説(ジャン・カルヴァン)によって資本主義が産まれた事からも、証明されている。
変化適応力とは何か?
これは「今日を一生懸命生きる」という事である。
ないもの探しではなく、あるもの探しをする、そして未来の自分が一番喜ぶ選択をする事である。
ガンジーの言葉を借りるなら「明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ」となる。
これは「あれがないから出来ない」ではなく「いまあるモノで何が出来るか?」つまり自分がいま何が出来るか?を考えて行動しよう、という事である。
今日できなくても、努力次第によって明日出来るようになる。そもそも人間とは元来、劣等性を克服する力を持って生れてきている。そして苦痛を耐え忍んでやり続けるようには出来ていない。つまり楽しい事は幾らでも努力出来るように出来ている。出来ない事は楽しくないと思い込んでいるか、楽しさを知らないか、他者と比較して出来ないから楽しくない、と思っているか、である。
そもそも多様性の時代とは「みんな違ってみんな良い」時代であり、言い方を変えると、良い悪いが存在しない世界であり、それは全て個人に還元されている時代である。
つまり学歴だろうが何だろうが、分かりやすい優劣がつけられない時代であり、他者との差が分からなくなっている時代である。
周りの変化に合わせて右往左往するのではなく、今自分の持っている能力で、周りにどう貢献するか、を考えれば良い。みんな違うのだから、お互いの持っている能力を足し合わせて物事を行えばよい。そして足りない能力があるならば、どうしたらその能力を手に入れられるだろう?と考えて行動すれば良い。
つまり変化適応力とは、言い換えるなら、変化に振り回されない生き方、でもある。
まとめ
自立、自律、変化適応力はそれぞれ独立しておらず、3つが連携している、と考えている。そしてそれぞれの元にある考え方としては、今までも未来も変わらない「人間本来の姿」に着目している。
自立した私が私のまま、今、私が生産出来るモノを共同体に提供し、共同体も私に提供する(贈与の関係)事が出来、そして最終的に共同体と一体化(≠同一化)する。その時、誰もが共同体に服従する必要も転倒する必要もない。
つまり変化の激しい時代であるからこそ、変わらない人間本来の姿を拠り所とし「今日を皆と一緒に生きながら、自分の中から喜びを見いだせる」事が人間本来の姿に立ち、これからの時代を生きる上で大切な事である、と考える。
この様な世界は、誰もが生きやすい世界では無いか?と考えている。
4.自分が子ども達と一緒にやる事
「今日を皆と一緒に生きながら、自分の中から喜びを見いだせる」為に、自分は何が出来るのだろうか?
児童心理学の世界では「子どもにとって対人関係の経験が重要」と言われている。そしてこれは「量(時間)ではなく質が重要」「物理的な距離ではなく心の距離が重要」という事でもある。
では経験とは何だろうか?
アドラー心理学によれば「経験とは自ら意味づけた主観的な世界」であると言う。人間は主観的な生き物である。言い換えるなら主観でしか世界を認識できない。何故ならば、自分の中にその世界が無ければ分かりようが無いから、である。
例えば、リンゴを食べた事が無い人に対して、いくらリンゴの味を語ったとしても伝わらない。リンゴの味が伝わるのはリンゴを食べた経験が自分の中にあるからである。先天的に盲目の人に対して、空の青さをどう伝えるのだろうか?自分に犬の気持ちが本当に分かるだろうか?アユは?虫は?木は?
そしてこれは「意味付け次第で世界はどうとでも変わる」という性質をもつ、という事でもある。(これは認知的不協和でも証明されている)
同じ事象によっても、人によって意味合いが異なる。
例えば、鶴を見たとしよう。鶴は、北欧方面では「死を運ぶ鳥」と理解されているが、日本ではそういう習わしはない為、何とも思わない。
つまり、子どもにとって経験が重要である、という事は「世界を肯定的に捉えられる」ような主観的な世界が重要である、という事である。
では、「世界を肯定的に捉えられるようにする」為には、どうしたらよいのか?
世界を2つに仕切ると「変えられない世界」と「変えられる世界」の2つがある。
変えられない世界とは、外的要因が多い世界であり、例えば人間性原理や法律、道徳、人間関係、競争原理、など、いわゆる大きな物語である。この「変えられない世界を変えようとする」というのは、「他者を自分の都合の良いように変化させる」という面もある。これは現代ではDVやハラスメントという言葉で表現されている為、注意深く進める必要がある。
では変えられる世界とは何か、というと、自分自身の内面になる。例えば、優越感や劣等感、トラウマや承認欲求など。
前章の話で行くと、変えられない世界に服従か転倒するかではないやり方がある、と考えている。
この2世界で考えるなら、変えられない事に力を注ぐのではなく、変えられる事に力を注いだ方が効率的である、と考える。
そもそも人間は生まれながらに劣等性を克服する力をもち、共同体感覚を持って生れている。そして主観的な世界でしか生きられない。
そして内面を外部から強制的に変化させるのではなく、その様な価値観をもつ世界で生活する事により、自然とそういったライフスタイルを身に着けていく事が望ましい、と考える。
であるならば、「世界を肯定的に捉えている、共同体の一員として生きる」事で、その世界を経験し、世界を肯定的に捉える事が出来るようにする事が望ましい。
つまり「存在に感謝する共同体になる」ような環境を構築する事が、自分が子どもと一緒に出来る事である、と考える。
「存在に感謝する共同体」とはどのような環境かと言うと、例えば以下のような環境である。
これは都度アップデートしていく事が大事である。更にいうと、大人だけでなく、子どもも一緒に、つまり共同体全員で考えていく事が重要である。
毎日、感謝する
● 『お金を払っているんだから喜ばせてもらって当然』と考えて偉そうな態度を取る人が『お客さん』なんです
● 自分が何に支えられて生活しているのか、周りを見て、気付けるようになる
● 自分の仕事は、人の助けなくして、一日も進み得ないのである
● 自分の金、自分の仕事、自分の財産。自分のものと言えば自分のものだけれど、これもやっぱり世の中から授かったもの。世の中からの預かり物である。
● 人の長所が多く目につく人は、幸せである
夢(志し)を持つ
● 常に「何の為に?」を意識する
● 失敗の多くは、成功するまでにあきらめてしまうところに、原因があるように思われる。最後の最後まで、あきらめてはいけないのである
● 人は騙せても自分自身は騙せない
● たとえ平凡で小さなことでも、それを自分なりに深く噛みしめ味わえば大きな体験に匹敵します
● 世の為、人の為になり、ひいては自分の為になるということをやったら、必ず成就します
毎日、出来たことを数える
● 日常生活の中に楽しみを見つける(足るを知る)
● 富は海の水に似ている。飲めば飲むほど、のどが渇く
● 自分の中に足りんと感じてることがあって、そこを何かで埋めようとするんやのうて、自分は充分に満たされている、自分は幸せやから、他人の中に足りないもんを見つけ、そこに愛を注いでやる
● 失敗すればやり直せばいい。やり直してダメなら、もう一度工夫し、もう一度やり直せばいい
● 心くばりの行き届いた仕事は一朝一夕には生み出せない
仕事の意味を知る
● 働くとは、人に必要とされ、人の役に立つことだと思います
● 何故人はお金を払うのか?
それはそのモノにその人が価値を感じて払う
「儲かる」という事は、それだけ多くの人に必要とされているからである
● 商売とは、感動を与えることである
● 誰も争うために商売しているわけではありません
● 無理に売るな、客の好むものも売るな、客のためになるものを売れ
まとめ
自分の考える「子どもの幸せを軸に家族を再構築する」とは「明るい過去と未来を目指して、共に生きる」事である。
そしてその為に必要なのは、時間的な量でも、物理的な距離でもなく、時間的な質であり心の距離であり、その為に子どもにとっての環境をどう用意するのか?という事である。
つまり、過去は変えられる、未来は幸せになる、という意志である。
そして現在とは、未来を共感し、他者を信頼し、託して生きる、という事である。
言い換えると、今の自分をありのままで捉え、他者を信頼し、他者に貢献し、協力原理(共創原理)の基、私たちの幸せ(共同体全員の幸せ)を求めて、今日を生き続ける、という事である。
子どもには相当の回復力があり、新しい関係を構築する力がある、と一般的に言われている。
自分は、それは子どもだけでなく大人にもある、と考えている。
最後に
自分の今までの人生及び書籍や専門家のアドバイスを元に、子ども達の幸せを軸に家族の幸せについて考察し、その中で自分がやる事を主張した。
自分の主張した事は一朝一夕で出来る事ではない。また、状況に合わせて様々な手法を足掛かりにし、都度バージョンアップしていく必要がある。
ハンナ・アーレントは「イレルサレムのアイヒマン」の中で「悪の凡庸さ」を説いた。
「ミルグラムの服従実験」によって我々の殆どが巨悪になれる事が証明された。
レオン・フェスティンガーの認知的不協和理論によって「人間とは合理的な生き物ではなく、後から合理化する生き物である」である事が証明された。
20世紀最大の巨悪であるホロコーストは、徹底的に責任の分解を行い、個々人が責任をおたがいになすりつけ「自分は悪くない」と合理化する事で実現した。
そして、それは現代社会でも有効である。
そして、この事実は同時に
「自分に責任がある」と思う事により巨悪を断ち切る事が出来る
という事も証明している。
責任という言葉をネガティブに捉えないで欲しい。
21世紀は多様性の時代である。
多様性の時代の公平・公正とは何か?(多様化した価値観の中で公正・公平をどう定義するのか?)
自分は「私たちは間違える」であると考えている。
そして「我々の愚かさを赦しあう事」だと考えている。
目の前の子どもの幸福を真剣に考え、その時ベターだと結論付けた内容が例え将来的に間違っていたとしても、我々は「間違いだった事が分かった」と過去を肯定し、その間違いを次に繋げる事が出来るようになる。
「現行の慣例にのっとり、思考を停止し事を進める」事はアーレントの言葉を借りれば「悪」である。
そしてその結果は、ユニセフ報告書のレポートカード16の通りの未来として続く。
子どもの自殺者は増加の一途を辿る。その事実は変わらない。
「責任を引き受けない」為に現行システムに服従し、合理化し続けていく生き方は、誰もが幸せにならない。何故なら「自殺者が増え続ける」という事実に対して「自分は関係ない」と自分自身に嘘をつき続ける一生になるからであり、それは自分には想像を絶する事である。
その未来を否定する為に「家族全員の幸福」を共通の目的地とし「子ども達の幸福」を中心において、そこに至る為にどのように家族を再構築するのが現時点で最も良いか?を真剣に考えてほしい。
幸福に至る道は複数あると思うし、各人が同じ道を歩む必要もない。様々な道があると思う。そして、自分の考えは述べている通りである。
出来るなら「子どもの幸福」を考えるうえで、当事者である子ども達もその輪の中に入れて欲しい。これは年齢云々関係なく「自身の事に関して意見を言える場」があるかないか、がこの後の人生の為にも必要だと考えているからである。
多様性の時代とは、清水博氏の言葉を借りるなら、以下の状態であると考えている。
自己組織的な生き方とは、互いの違いを受け入れて、互いの存在意義を高めて合いながら共に生きていくこと。違いを受け入れる時に、感情に多少の波だちが生まれても、共に向かう未来の夢がそれを「おたがいさま」と飲み込んで解消してくれるような開かれた大きな夢を共有すること
本記事では、自分は共有された大きな夢を
「子どもの幸福を軸に20年後の家族全員の幸せを達成する事」
であると主張している。
自分の提案に従う必要は無い。誰もが共感できるもっと良い大きな夢が他にあるのならば、当然そこに変える。
そして、家族全員とは、全ての人が含まれる事が望ましい、と考える。
参考文献
「未来を読む AIと格差は世界を滅ぼすか」ジャレド・ダイアモンド他
「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ
「ホモ・デウス」ユヴァル・ノア・ハラリ
「21 Lessons」ユヴァル・ノア・ハラリ
「菊と刀」ベネディクト
「命をつなぐ政治を求めて」嘉田由紀子
「嫌われる勇気」岸見一郎、古賀史健
「幸せになる勇気」岸見一郎、古賀史健
「子どもの養育に心理学がいえること—発達と家族環境」H.ルドルフ シャファー (著), 佐藤 恵理子 (翻訳), 無藤 隆 (翻訳)
「子どものための法律と実務」西岡 清一郎 (監修), 安倍 嘉人
「離婚で壊れる子どもたち〜心理臨床家からの警告〜」棚瀬 一代
「はじめての構造主義」橋爪大三郎 (著)
「これからの「正義」の話をしよう 」マイケル・サンデル (著), 鬼澤 忍 (著, 翻訳)
「夢をかなえるゾウ」水野敬也
「その悩み、哲学者がすでに答えを出しています」小林 昌平
「武器になる哲学」山口 周