【カメラ練習】ポージングの話(閑話休題)
普段は物撮りばっかですが、これでもポートレート撮りたいんだぜ。と言ったら信じて貰えるだろうか?と、常々思ってますがどうだろう?
というか、写真の本って脱初心者とかの、所謂初心者向けは沢山あるけど、それ以降は無いのね不思議。初心者が一番売れる、という事なのかも知れない。あと、地味に高い。1,000円切らないのだろうか?あとは「この写真を撮りましょう」的なドリル?のような奴って無いっすね。需要無いのかな?
さて置き、ポージングってのがあります。
簡単に言うと、写真に映る時の形とか角度って大事だよね、という事です。
因みに自分が撮る時は、ポージングは凄く適当です。最近は。昔は、こんな感じであんな感じで、って話をモデルとしていました。
確かにポージングが上手い人の写真を撮ると、誰でも上手に撮れるんですよね。マジで。技術なんてカメラに任せれば良いので。
で、ある時ふと何かで読んだのですが
ポージングをしない物語
という言葉。これに引っかかった。
自分が人を撮る時って、何が撮りたいかと言うと、
撮られた人が喜ぶ写真
なんですね。
みんなが喜ぶ写真では無くて、その人だけが「良いね」って言ってくれればそれで良い。みんなが言ってくれたらそれはそれで良い。
ただそういう写真って、大概の人が「良いね」って言う写真は外さないんですよね。王道は大事。なので、ポージングが綺麗に決まった写真は大概の人にとって良い写真なので、その人にとっても良い写真になる確率が高いです。図解すると以下のような感じです。
撮られる側が写真に何を求めているか、というのも大事ですが
「本当にそれで良いんだっけ?撮られる側にだけ技術を求めるのは違うんじゃないの?」
という疑問が、ふと沸いた。そこから、色々と考えだした。
そもそも普通の人って、ポージングしないんですよね。カメラを向けても、真正面に真っすぐに立っちゃう。
それに対して、
レンズに向かって斜め45度になって、前足出して、腰ひねって、腕は三角、S字が基本、アゴ引いて、胸はって、肩甲骨を引く感じで
とか話しちゃうと、その人らしさって何だろうか?それで本当に「良いね」っていう写真が撮れるのか?結局、撮られる側のスキルに頼っているんじゃないの?と疑問に思ったわけです。
別に「撮らされている感」とか「スキルアップが云々」とか「オリジナリティ」とかそういうのは全部どうでも良くて、ポージングにこだわった先に「撮られた人が喜ぶ写真」があるのだろうか?という疑問が沸いた。
コレを理解する為には、哲学的なお話が絡みます。
愛とは、私たちになる事である。
写真に映るのは、物語である。
自分が撮りたい写真は「撮られた人が喜ぶ写真」である。
写真って撮られる人しか映っていないのですが、そこには必ず撮る人がいるんですよね。(セルフィは撮る人と撮られる人が一緒、というだけで)他にも場所とか季節とか色々な要素が関わって来ています。
実はそこに物語があるのではないか。
どっちかが楽しくてどっちかが楽しくないというのは違うし、撮る人と撮られる人が一緒にいま出来る事をやれば良いし、自分が良いと思う写真と相手が良いと思う写真が一緒だと楽しいし。
つまり、撮っている時間の中の一部が写真として残って、それが楽しい記憶として残れば良いかな、と。
写真に映る時間は1秒満たないですが、そこには(例えば撮影時間が2時間だとすると)7,200秒の時間が残るんです。後で写真を見て思い返す時間があるんですよね。だからその人達にしか分からない物語が存在する。
そう思ってから、ポージングは超適当になりました。というか、結構偶然に頼るようになった、というのが正しいのかも。
偶然に頼る、と言っても、一応テーマとかコンセプト的なモノは決めてはいます。ポージングも結構適当に話しています。ただ、適当から先は自由度を持たせています。
あともう一つ。ジロジロとモデルを観察するようになりました。
この人の魅力は何だろうか?自分が思うこの人らしさは何だろうか?らしくない写真を撮ったらどうなるんだろうか?とか。
これは相手との関係性が出来る前にやると結構ヤバそうな気もしているので、基本、関係性を構築してから写真を撮らないと不味いです。今の所、関係性を構築する前の人を撮る機会は無いので、本当にヤバいかどうかは不明ですが。
因みに。関係性が出来ていて偶然性に頼る為に何も言わずに勝手にシャッター切ると「何故撮った」と言われる時もあるので、注意が必要です。
最後に。
旅は 行って 帰って 思い返す
になぞらえるなら
写真は 撮って 見て 思い返す