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愛(エーリヒ・フロム)

愛とは、相手の属性を利用する事である

 現代の愛とは、相手の属性を利用する事である。
 何故か?
 現代日本は、民主主義、資本主義、科学技術の三本柱で回っている。
 そして、自由、平等、公平の名の元に生きている。

 さて、貴方は何かを買う時(服でもパソコンでもカメラでも何でもよい)沢山ある同じようなモノの中からどうやって決めるのだろうか?
 例えばパソコン。
 CPUが、メモリが、ハードディスクの容量が、つまりスペックと、あとお財布事情で決める。

 では人は?恋人だったり雇用者だったりなんだり。
 人と商品の決め方はイコールだよねと言われたらビックリするだろうか。
 人は商品じゃない、と思うかもしれない。
 仮にそうだとしよう。ならば「何をもって公平」って言うのだろう、を考えて見て欲しい。
 例えば、給料について考えてみよう。
 1時間働いた人と100時間働いた人、全く同じ給料だったとする。
 これは公平だと感じるだろうか?
 貴方は100時間働いた、けれど1時間働いた人と同じ給料だった。「不公平だ」と感じないだろうか?
 そうやって考えて見ると、学歴だったり会社名だったり労働時間だったりいくら売上を上げた、TOEICが何点だ、資格がどんだけもってて、だったり。そういった「分かりやすい差異」を決める事で「公平だ」と言っていないだろうか。そしてその価値観の中で優劣を決めていないだろうか。
 つまり、誰かが誰かを「評価」する時「貴方は私に何を提供してくれるのですか?」と問うているのではないだろうか?
 何故そうなっているのか?
 そもそも現代日本は「自己中心的な生き方」という構造になっているからである。
 こういう生き方を「機能論的人間観」つまり「あなたは何を持っていますか?(何が出来ますか)?」に重きを置く生き方、と言う。
 そしてこの生き方は所謂「落ちこぼれ」を生む生き方である。
 そして将来みんなが「落ちこぼれ」になる生き方でもある。
 何故なら誰もが、年を取り体が思うように動かなくなり、そしていづれか何も出来なくなるから、である。

愛とは、私たちになる事である

 「機能論的人間観」に対して「存在論的人間観」というのがある。
 これは「存在する事」自体に重きをおく、という人間観。
 生まれたばかりの赤ちゃんに何らかの機能を期待するだろうか?「貴方は私の為に何をしてくれるの?」と問いかけるだろうか?そもそも人はそういうモノでは無かっただろうか?という話。
 つまり「私は貴方の為に何が出来ますか?」という事である。
 これは「自己犠牲」ではない。「忘己利他」とも少し違う気がしている。
 「自己犠牲」は他者による搾取だと思う。これでは自分が持たない。他者の為に在り続ける事が大切だ。その為に己を忘れる訳にはいかない、と感じる。
 利他の為には「いま私が私が生産出来るモノを他者に与える」という事だと思う。私の中から無限に生産出来るなら、いくら他者に与えたとしても、搾取とは感じないだろう。
 例えば(経済とか何とか全部忘れて)お金を無限に出せるバックがあれば、他者に与える事に不満を感じるだろうか?毎日5兆円手に入るなら、毎日1億円寄付する事に戸惑いを感じるだろうか?
 じゃあ自分の中で生産出来るモノを増やし、他者に贈り続ける為には、何が必要か?
 それは自立と自律であると考える。
 自立とは、自分の人生を生きる事である
 ありのままの自分を受け入れ、自分の価値を自分で決め、そして自分の物語を自分で作る。
 自律とは、「One For All, All For One」である
 自己中心的な生き方をやめ、私は貴方たちの為に何が出来ますか?」と問いかけ続け、貴方を信頼し、尊敬する。

 そして沢山の「あなたへの在り方」がいつか「世界への在り方」へとなり、私は私のまま、世界と一体化する。
 その世界は「私が生産出来るモノ」を贈り「貴方が生産出来るモノ」を受け取る世界、つまり共創の世界となる。(これは贈るだけでなく受け取る事も重要だ、という事である)

 そもそも人間とは、劣等性を克服する事により進化してきた生き物である。出来るようになる、という事は楽しいし嬉しい事だし、人の役に立つというのは元来嬉しいと感じる生き物である。
 何故なら人間とは、虚構を構築し、共有し、役割分担する事により進化してきた生き物であり、更に言うと、元々苦痛を続けていく事が出来る様には出来ていない。
 人それぞれ楽しいと感じる事が異なる為、この様な世界でも多様な役割分担が可能となる。

 つまり、これが愛である。

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写真小作家 みんなのなわたん
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