The Catcher in the Electron ④

 まだ普通の大学生をしてた頃、一人の少女と出会った。

  有島琴音。

 なんとなく寂しい夜、ティンダーでマッチした。アプリ上に表示されている名前は“非国民的花子”で、聞いてみると俺の好きなアーティストの曲からとっていた。それからプロフィールに俺の好きな漫画のワンシーンが貼られていて、すぐ意気投合し、LINEを交換し通話した。

〈も、もしもし〉

 琴音の第一声はか弱く、人見知りの様だった。どこか怖れのようなものも感じた。

 軽い身の上話をしても、琴音は相槌を打つ程度でほとんど喋らない。先の漫画の話をした。不遇な環境で育った女の子と自意識を拗らせた青年が逃避行する物語だ。その漫画の青年に重ね、少し自分の過去の話をした。

〈私も裏切られてきた〉

 琴音が喋りだした。高校生の頃、社会人の男と付き合っていた。会うといつも郊外のホテルに車で連れていかれた。自分のことが好きかと聞けば「うん」と返してくれた。でも彼からは言ってくれなかった。二カ月して彼が浮気をした。LINEで問い詰めると連絡が取れなくなった。そう語った。そして夜通し話した。

〈逃げたい〉

 琴音はそう言った。それは親から、今の居場所から、そしてこの世からだった。琴音は生まれてから今まで、常に親からの束縛を受けていた。


  彼女には夏休みが無かった。

 部屋のドアは常に開かれていた。親は頻繁に鞄や財布の中身を、それも彼女がいない隙に確認した。高校生の頃はスマホにGPSを入れさせられ、どこにいるか常に把握された。当然、友達と遊んだり、恋人と付き合ったりなんて思い出はない。自由なんてどこにもなかった。

 そして深くは聞けなかったが、レイプされた過去もあるようだった。


〈もう死にたい〉

 彼女は繰り返した。言葉に詰まった。

「……死ぬなら」

〈ん…〉

「死ぬなら幸せになってから死のうよ。不幸なまま死んだらそいつらに負けたことになる」

沈黙。どれくらい続いただろうか。

〈……じゃあ私を幸せにしてくれる?〉


  次の日、俺たちは会った。新宿駅、丸ノ内線の西側の改札で彼女を待った。来るまでの間もずっとLINEのやりとりが続いた。一七時三十分より少し前、彼女は改札から出てきた。胸元にある白い縁のリボン結びが印象的な黒の長袖に、灰色チェックの少しフリフリのついたミニスカート、そしてYOUSUKEの黒の厚底スニーカー。彼女は厚底を履いていても、そこまで背の高くない俺より一回り小さかった。

西口に出る階段に向かう。俺の方がだいぶ緊張していた。琴音の方は昨日とうって変わって明るかった。

「マスク逆さまだよ」

 黒のウレタンマスクをしていた俺に、琴音が近づいてきてそれを外した。

「つけてあげる」

 彼女が俺のマスクを付けなおす。

「ずっとこっちが上だと思ってた」

「かわいい」

 彼女は笑った。琴音もとても可愛かった。

 西口を出ると街は人込みだった。俺は彼女の手を握った。すぐに手をほどかれたと思ったら、恋人繋ぎに直された。

 このときのやりとりは今も鮮明に覚えている。

 カラオケの鉄人に着いた。待ち時間は二十分ほど。その間どんな歌を歌おうかなんて話をした。追加料金で色んな味のアイスクリームが食べ放題で、彼女は楽しみにしていた。

 番号が呼ばれカウンターに向かう。DAMでいい? と聞くと彼女は目を見てから笑ってうなずいた。お互い学生証を出す。彼女のそれが見えた。

 有島琴音はまだ高校生だった。


 それから俺たちは毎日のように会った。映画を観に行ったり、服屋を巡ったり、ファミレスでだらだら過ごしたり、ごく普通の男女の、平凡すぎるような時間を一緒に過ごした。でもそれが彼女にとってとても特別なもののようだった。


 よみうりランドのイルミネーションに連れて行った。園内全体がカラフルに光り輝き、止まった大きな噴水にそれが反射して、隣には彼女がいて、その彼女の顔からは、壮絶な過去を感じられなかった。

「私この日のために生きてたっていま思ってる」

「俺も」

 目を合わせて笑った。

「次はディズニーだね」

 いつからかずっと握っていた手を彼女は持ち上げた。


 新宿駅に着いた頃には二十時になろうとしていた。京王線の改札を出て大江戸線に向かう途中、彼女は立ち止まった。

「どうした?」

「……帰りたくない」

 震えた声で言った。

「せっかく夢のような時間を過ごしたのに、あの家に帰ったら全部台無し」

 彼女は少しうつむき、瞬きをしていない。口だけが動く。

「新宿ホテルいっぱいあるでしょ」

 数えきれないくらいの人が通り過ぎていく。

 彼女の繋ぐ手の力が強くなった。刹那、俺はその手をほどいてしまった。

「え?」

 彼女がこちらを見る。

「あのさ」

「まってよ」

「ずっと言ってなかったんだけど」

「まってって」

「琴音って」

「だからまってって!」

「……琴音ってまだ高校生だよね」


 その後、彼女は泣きじゃくっていたと思う。強引に立ち去ったからわからない。着信が鳴りやまなかった。次第にメッセージが何件も来た。通知の音が鳴りやまなかった。

 見たくなかった。見れなかった。メッセージを全て削除し、ブロックした。

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