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日々是雑感2022/07/25

久々に芸術的な観点を書き残したいと思う。転職活動ばかりでは流石に疲れて仕方がない。ふと芸術分野において哲学的なことを思い出した。

芸術活動とは有為なのか、無為なのか。それとも行為なのか。哲学的な課題である。

大学院時代に美学分野を専門とする大学教授がいた関係で、自分自身も少しは美学についてかじったことはある。しかし、美学も一筋縄にはいかない世界だ。やはり哲学的な思想を持たないとついていけないのだ。

有為と無為、辞書で調べる意味では、有為(ユウイ)では「才能があって将来大きい仕事をする見込みがあること」、「役に立つこと」、「能力があること」、仏教用語での(ウイ)では「因縁によって生じた、生滅・変化してやまない現実の有様」のことを指すという。

一方、無為(ムイ)は、「自然のままで、作為的でないこと」を意味し、仏教用語での(ムイ)は「生滅・変化しないもの、自然、絶対」をさし、また「ぶらぶらと何もしないでいること」という意味もある。

また、行為とは人が意思に基づいてすること、行動することのため、自発的な意味で使われる単語である。

全ての作品においてまず感じるのは人の手によってつくられたものであることから、まず「無為」ではないことは言えるだろうと感じた。ただ、辞書そのままでの意味で「有為」という言葉には違和感を感じるし、その言葉自体違うのではないかと思う。「有為」ではなく「行為」であるならまだ理解できるが、それ自身、作為的・恣意的な視点や製作者の「意図」が必ず入るわけだから、必ずしも「有為」とは限らないのだ。

ありのままを残すことは、本来「無為」であることが一番である。しかし、いかなる方法であれ、平面に、立体に、形として残すこと自体が「行為」であり、目的も動機も意志も手段もあるわけだから、無為そのものを残すことは、実は自然ではない。つまりはその作品自体、作品を制作する段階で「何らかの初期衝動」があったからこそ人々は行為を起こす。それは確かに有為であるが、上述するような意味を一切持たない。

「無為」と「有為」は相反する意味で反発し合うが、「行為」という手段があることによって、「無為→行為→有為」という図式が成り立つのではないかと思った。自然を残すことはどのように足掻いても結局形に残すこと、無為は行為によって有為になる。非常にややこしいが、目に見えるもの全てにおいて意味がある。非言語の感情表現は単純にポンポンととってつけたようなものではないのだ。

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