日々是雑感2021/10/22
アートの必要性、というより、今日はアートの東京の必要性について考えたい。
東京は首都である。もちろんそれは否定できない。人が多い。それも否定できない。が、アートは東京から発信する必要性があるのか、そこに対して自分は微妙な感覚を覚える。
日本各地にはさまざまなアートシーンが興っている。越後妻有や愛知、横浜でも芸術祭が数年に1度開催されている中で、東京で毎度毎度のように新しいものが生まれては消えるアートシーンに何か違和感を覚える。アートは消耗品のように扱われているところも所々聞く。
最新のアートシーンも東京で毎年開催しているが、連続で顔を知っている作家を見るのもちょっと違和感がある。最新ならずっと新しい作家を紹介し続けてほしいと願っているからだ。おそらく所属作家なのだろうけど、2年連続だと面白みや斬新さに欠けてきてしまう。
日本は東京で成り立っているような風潮も自分は違和感を覚える。しかし認めなければならないところもある。政治経済や文化、学術の中心で政治に対して方々からロビー活動がしやすいという利便性や人口に対しての需要や発展性、そして最高学府の集積地としても、魅力的な環境であるからだ。しかし、それらを東京から奪ったら何が残るのか。
東海道・山陽新幹線の途中停車駅である名古屋・京都・新大阪、新神戸・岡山・広島・小倉・博多は全部ひっくるめれば東京の代わりになりうるのに、各都市が足を引っ張り合いをしているような感じが否めない。首都圏は全国の人員物品が揃わなければ成り立たない脆弱性だってあるわけだ。電気も東北から送らなければ厳しい状況が続いていたわけで、それは東日本大震災で露呈した。
恵まれた環境である東京だからこそできる、というのは間違いないが、あえて東京を反面教師にして見れば、東京から全てを奪えば・喪失すれば東京の必要性はないわけだ。現代社会において物流は恐ろしいほど発達しているし、ネットで頼めば翌日以降に届くわけだから、もの1つに対して慌てる必要はないのだ。
そして東京から常に発信し続ける必要性よりも、日本各地で芸術の発信を続けた方が、ひょっとしたら日本が常に悩み続けている諸問題もあっという間に解決できるのかも知れない。
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