誕生日ってこんなに静かに訪れるものだったっけ?
27歳になった。
いつも通り昼前に起きて、家事をこなしたら昼が過ぎて、何も食べていないことに気付きあわててヨーグルトをかき込んだ。
今日が誕生日であることは自覚していた。
流石に日付を忘れたりはまだしない。
少し前まで、誕生日という日は、自分のために太陽が昇り、自分を取り囲む社会の住人は皆、私をお祝いしてくれているような感覚だった。
森羅万象、全てグレードアップして見えていたはずなのに。
気付いてみたら1人、いつもと変わらない日だ。
もちろん、同じ日は毎年やってくる。
慣れてしまいたくないけれど、完全にマンネリだ。
大人になったから当たり前なのかもしれないけれど、少し寂しい。
(夜には友人たちが集まってご飯を一緒に食べてくれたが、それでも)
「子供の頃とは、体感する時間の長さが違う」と誰かが言う。
「20歳までで、精神年齢的にはもう人生の半分なんだって」とも。
同じことは、クリスマスやお正月にもいえている。
20歳くらいまでは、はっきりと
クリスマスが来た、お正月が来た、と句読点を付けることができていた。
でも今は、
クリスマスが来たお正月が来た
クリスマスが来た正月が来た
クリスマス来た正月来た
クリスマス正月 ←いまここ
クリスマ正月
クリス正
クリしょ
クし
という感じだ。
クリスマスパーティーをしたり、ご馳走やお酒を用意したり、恒例の紅白を見ても、カウントダウンをしても、捕まえることができない。
実感がない。
誕生日もクリスマスもお正月も、
あぁ、もう過ぎたのかと、また捕まえられなかったなと、過ぎるならもっと早く言ってよ、とずっともやもやしてしまう。
もちろん理由だって考えた。
毎年が代り映えしない同じような年だからとか、
実家で過ごさないからだとか、
自分が大人になったからだとか。
でも、もっと些細なことだと思う。
子供のころのわくわくに勝てないからだ。
たとえばクリスマスにはサンタさんがくる。
寝ている間に仕組まれた愛だとはしらずに、スターが自分のためにおうちに来ると本気で信じていた。楽しみでたまらなかった。
プレゼントだって。
今年は何をくれるんだろう。
今年はあんまりいい子じゃなかったから、来てくれなかったらどうしよう。
ちゃんとサンタさんにほしいもの伝わってるかな。
毎回そわそわして、いてもたってもいられず、
「ありがとうサンタさん」というタイトルの手紙を何度も書いた。
クリスマスは恋人たちのためにあるのではない。
子供たちのわくわくと壮大などっきりのためにある。
年越しの瞬間は、本当に「新しい年」に乗り換えるような感覚があった。
前の年を残して、新しい年に巨大な集合体としてタイムスリップするような感覚も。
お正月には、普段家に来ないような大人たちがたくさん集まった。
お年玉だってたくさんくれた。価値がわからなくても、なにかプレゼントをもらえることがうれしい。
毎年毎年、自分の心身が変わっていくことを実感する誕生日。
サンタさんというスターに会えるかもしれないクリスマス。
タイムスリップできる年末年始。
今はどうだろう。
大人になったら、心身の変化はほんとに少しずつだし、
サンタさんはいないとネタバレも済んだ。
年末年始だって、ずっと乗り換えせずに同じ年を使い続けているような感じだ。
「去年も早かったな」と同時に「今年も早いのかな」と心配になる。
人生は長いけれど、短い。
まだ27歳。もう27歳。
時の流れについて考えるのは、ただの人間の性なのかもしれないけれど……
でもこのまま、ずっともやもやし続けるのは嫌だ。
時間を捕まえることができていたあの感覚は忘れたくない。
ずっとは難しいかもしれないけれど、きちんと時間を噛みしめて、これからの人生を「長く」していきたい。