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これから『ユリシーズ』を読む人のために
ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を遂に読了した。
ただ、読んだのはあくまで日本語訳なので、原語版を読んだ人だけが真の意味での「読了」と言えるだろう。
筆者は何も全ての洋書を原語版で読むべきとは思わない。
だが『不思議の国のアリス』のように「言葉遊び」を重視している作品は、やはり翻訳ではなく原語版で読むのが適切だろう。『ユリシーズ』はまさに「言葉遊びの究極」と言える作品であり、遊びを極め続けた結果、芸術の領域にまで昇華させてしまった。
英語だけでなく、フランス語、イタリア語、ドイツ語……『ユリシーズ』には多数の言語が出て来るので、英語の一般教養が備わっていても果たしてちゃんと読めるのかは疑わしい。英語だけに絞っても、古代の英語から中世⇒近世⇒近代⇒現代と、英語の文体の変遷まで網羅しているために、もはや英語を学んだからと云って即読めるモノでもない。
そういう意味で、丸谷才一氏、永川玲二氏、高松雄一氏の日本語訳には、素直に敬意を払うべきである。後にこの三者の翻訳に対して、柳瀬尚紀氏が批判する意味で翻訳し直したが、柳瀬尚紀氏じゃなくとも、『ユリシーズ』自体が日本語に翻訳するのが非常に難しい作品であり、どう翻訳しようとも外野からの批判は決して避けられないのは日本語訳を読んだだけでも容易に判別出来るからだ。
批判や間違いを恐れて何もしない人よりも、批判や間違いを指摘されることを覚悟した上で翻訳に努めた三者や発刊した集英社を支持したい。
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さて、そんな日本語訳の本だが、これを読み終えるだけでも1か月と10日も掛かってしまった。
『ユリシーズ』は18章構成。1章につき1日掛けて読み進めた。
普通に1章1日のペースを守れば18日で済む行程だが、筆者は『ユリシーズ』と同時に、過去に一度読了した『オデュッセイア』も並行して再読していったので時間が余計に掛かってしまった。
『ユリシーズ』を1章読むごとに、『オデュッセイア』も1章読み進める。これを守ることで、両者の共通の形式や謎を紐解こうと考えたのである。
これから此処で述べる筆者の分析は、これまで多くのギリシア神話やジョイスの研究者達が述べてきたこととほとんど共通しているに違いない。
しかし『オデュッセイア』の構成を取り入れて過去に出版した『ライトニングヴァパイア』を再販する上で、『ユリシーズ』を読了したことで掴むことが出来た多くの要素を自分の作品に多く取り入れなければならないことを筆者は悟った。
そのため、『ユリシーズ』を読む前に注意点を述べていこうと思う。
『ユリシーズ』はコメディである。が……
文学は「学」と云う言葉が後ろに付いてしまったがため、アカデミックに高尚な研究対象として分析しなければならないと思われている嫌いがある。
しかし、『ユリシーズ』は、Wikipediaにも書かれていないことだが、その内容は実のところコメディである。
「高尚な芸術」として享受するよりも、文章を読む行為そのものを楽しみ、文中に出て来るギャグや下ネタを笑ったりして読むことこそ『ユリシーズ』の一番正しい読み方や楽しみ方であり、作者の意図に適っているだろう。
これから『ユリシーズ』を読もうと考えている方は「どういう話なのか」「何が起きるのか」と云った通常の小説を読む時のような考え方ではなく、「文字を読んだり、実際に発声して音読した時の言葉遊びを堪能したり」と云った「読む行為」そのものを楽しもうとすれば、『ユリシーズ』を何倍も他人より面白く読めるに違いない。だから、勉強や義務的に読書をするのはあまりおススメ出来ない。「ユリシーズがどういう内容か知ること」よりも「ユリシーズをあなたが楽しめるか」の方が遥かに重要である。
ただ、「笑い」と云うのは同時に「低俗」と見做されて軽侮されてしまう危険な背中合わせの関係を持つ。吉本興業のお笑い芸人やテレビのバラエティ番組が低俗と忌み嫌われるのは、「笑い」が併せ持っている暴力的要素を視聴者がよく分かっているからである。実際『ユリシーズ』も文中の下ネタを問題視され、出版停止処分を喰らうなどの苦労が絶えなかった。
作品や作者、ジャンルを守るために「高尚な芸術」であることをアピールすることは決して間違いではない。だがそれも「堅苦しさ」「扱いづらさ」「取っ付きにくさ」と云った衒学的な抵抗感も併せ持つ。
「ユリシーズ」の純文学とエンターテインメント
『ユリシーズ』を読んでまず思うのは、『オデュッセイア』や『ユリシーズ』を読んでいなくとも、読書をしたことがある者なら、何処かで読んだ経験がある文章だと感じることである。
筆者が真っ先に思い浮かべたのは、芥川賞を受賞した朝吹真理子の『きことわ』と黒田夏子の『abさんご』である。どちらも通常の文体で書かれていない作品だ。そのため読む人を選んでしまう欠点はあるが、高度な分析力を持つ芥川賞の選考委員の先生達からはその芸術性が高く評価される。
「文藝」とはよく言ったものである。
同時に選考委員達の言葉も思い出される。
例えば『きことわ』を選評した際、石原慎太郎は「プルーストやジョイスが苦手」と述べた。ジョイスは『ユリシーズ』の作者である。
『abさんご』を村上龍は「高度に洗練された作品」と評し、作品のレベルがあまりに高過ぎるので新人文学賞に相応しくないと考え、受賞に反対した。
日本ではこのような小説を「純文学」と呼ぶ。
「純文学」という呼称は、日本独特の考え方かもしれない。
映画は「ハイコンセプト」か「ソフトストーリー」かで大別される。
・「ハイコンセプト」は通常の三幕構成(起承転結)の娯楽映画。
・「ソフトストーリー」は人物描写や芸術性を重視した芸術映画。
日本文学は、映画と同じように「芸術性の高い作品を純文学(芥川賞)」「娯楽性の高い作品をエンターテインメント(直木賞)」で大別してきた。
そういう意味で、『ユリシーズ』は芸術性の高い作品だから「純文学」と大別したくもなるのだが、この考え方は重要な2点を見落としている。
一つは『ユリシーズ』は娯楽性も高いし、エンターテインメントの要素も内包していることを見逃していること。
もう一つは「芸術性」と云う名の下に行われた数々の偏見や差別である。
純文学とエンターテインメントを分ける危険性
作品を分類する上で「純文学」と「娯楽」を分けたことは役に立ったかもしれないが、創作全般に差別や偏見を生み出す遠因になってしまった。
例えば、いい年したオタクが「ゲーム」や「アニメ」にハマっていると、彼らより年長の大人が「子供が好きになるようなモノに夢中になっている」様を見て、滑稽に思えてバカにしたり、恥じたりすることがある。
これは元々、明治時代に「純文学」を至高とし、そうではない子供向けの小説を低俗と見做してバカにしてきた日本の歴史(文学史)があるからだ。
その影響から、子供が読んだり見たりする「漫画」や「アニメ」を馬鹿にして良いと云った偏見が、日本人一般に植え付けられてしまった。
先人達の努力の甲斐あって、漫画やアニメの地位もだいぶ上がったが、当の日本人にオタク文化への偏見が強かった原因が出来てしまったのは、明治時代、「漫画」「アニメ」「テレビ」「ゲーム」などもなく、「小説」しか「フィクション」が無かった時代、「子供向け」の作品を低く軽んじてきた歴史が関係しているのである。十中八九、子供達が楽しむ「漫画」「特撮」「アニメ」「ゲーム」などを軽んじてきた大人達は自分達の分析や感覚が、明治以降の日本の文壇で行われてきた「純文学重視」「娯楽軽視」の差別的発想の影響を受けていることなどまさか知る由も無いだろう。
そのため「芸術」には排他的な側面があり、理解出来ない読者や客の方を見下すような風潮まで生み出した。
それは決して褒められるような性質ではない。
では、何故「芸術」には排他的な面があるのだろう?
それは「芸術」そのものが他のものと比べて軽んじられ、排斥されてきたからである。この辺りの文学史は猪瀬直樹先生など、多くの文芸書評家らが解説している本があるので事実である。
新型コロナウイルスが蔓延した時、海外では芸術職に就く人達も支援する動きはあったが、日本ではあまり起こらなかった。「無駄」と見做されて、軽んじられた面は否めない。コロナ以前から、「芸術」の地位は極めて低く扱われてきたが、日本人特有の利に敏いケチな民族性も少なからず関係しているのかもしれない。
そうなると「芸術」に携わる人間達が「娯楽」を軽視してきた理由とは、他人から虐められた恨みを別の誰かにぶつけているような関係と同じような性質なのかもしれない。事件の当事者ではない一般人にとって、犯罪者など相手にする価値も無いはずだが、凶悪な事件が報道される度に人々は何故か注目し、犯罪加害者に罵詈雑言をぶつけ、加害者本人だけでなくその家族にまで非難の矛先を向けるのだが、それは「虐めても良い連中」を見つけて、誹謗中傷することで自分の中に溜まっていたストレスを発散しているのだろう。実際、学校でいじめの標的に遭ってしまう子も、少なからずその集団の中に馴染めなかったり、ルールを犯したりしたと見做されて虐めに遭って、最悪の場合、自殺に追い込まれてしまう。
筆者は、『ユリシーズ』を「芸術」とも「エンターテインメント」とも、分類などしたくない。読者には『ユリシーズ』を自由に楽しんで欲しい。
「高尚な芸術だ」と思っても良い。
「お笑い小説だ」と楽しんで良い。
ただ、忘れないで欲しいのは、自分と違う意見や感想を持った人達に反論したり、バカにしたり、見下したりするような言動は断じてあってはならないことである。
長かったり、難しかったりして読めなかった人も、『ユリシーズ』自体や他の読者への非難はやめてほしい。