まりしてん 誾千代姫を読んで

最近読んだ本の感想です。
立花宗茂は歴史が好きだとご存知の方が多いと思います。この本の主人公、立花誾千代は宗茂の正室です。私がこの本を読もうと思ったきっかけは、立花家のことについて調べるきっかけを作りたかったからです。立花宗茂ってほんとに本とかでもよく名前を見る人物で、いづれ詳しく調べなきゃと思いつつ、よく知らないままで…。誾千代に至っては本当に名前しか知らなかったので、まずは小説を読んでみようと思いました。
以下この本のネタバレを含みます。


1.立花誾千代について

誾千代は大友家の重臣、立花道雪の一人娘。道雪には息子がいなかったため、誾千代は7歳で、立花城の城督となります。女城主というわけですね。通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏んだとされ、戦国時代でも極めて稀だといわれています。父の道雪は、同じく大友家重臣の高橋紹運の長男、宗茂を婿養子に迎え、天正9年、2人は結婚します。

2.立花宗茂と立花誾千代の夫婦仲

一般的には宗茂と誾千代は不仲だったと言われているそうです。この本では夫婦仲はよく描かれていました。実際はどうだったんでしょうかね。
宗茂が不在のときは誾千代が城の守りを任されていたらしいので、宗茂も誾千代を信頼し、誾千代もそれに応えていたのは事実でしょう。
ですが誾千代は宗茂が柳河に移ったあとは城を出て別居しています。
このことと2人の間に子供ができなかったことが不仲とよばれる原因ですね。
誾千代も、エピソードなどをみる限りかなり男まさりな印象を受けるし、立花城を去るにあたって揉めたりしたもしたのかなー。
ただ子供に関しては、宗茂は継室を迎えた後も子供ができることはありませんでした。このことなんですけど、やっぱり宗茂や誾千代を調べれば調べるほど惜しいなぁと思ってしまいます。
もし子供がいれば両親は立花宗茂と立花誾千代、祖父は立花道雪と高橋紹運ですからね。強すぎますよね。もうこの字面が強すぎる…(かっこいい…〃ω〃)
宗茂には子供がいなかったので甥の忠茂があとを継いでいます。

この本の誾千代は想像どおりに描かれていたという印象です。幼くして城督を譲られ、父の影響もあり、いち武士のような強い女性でした。薙刀や鉄砲もできて本当にカッコよかった(//∇//) 本では宗茂と誾千代は幼馴染設定だったのですが、実際もよく顔を合わせる間柄だったんですかね〜
親同士は共に大友家を支える重臣ですもんね。長男の宗茂を養子にだす辺りでも両家の信頼の深さが伺えます。
宗茂は非常に素直な武将だという印象を受けました。最初は大友家に、そして秀吉の天下のあとは豊臣家に、、特に若い頃の島津との戦や関ヶ原での判断なんかをみると、これは誰しも家臣に欲しいし、好かれる人物だなと思いました。
父も養父もそういう人物ですし、なにせあの道雪に教育を受けたんですから。
同じく道雪に教育を受けたであろう誾千代とも思いが通ずる部分はあったと思います。魚は頭から骨ごと噛み砕いて食べろーっ!と道雪から言われる場面は笑いました笑笑。有名なエピソードらしいですよね。頭は硬い部分もあるし、内臓は我慢して食べられたとしても背骨はしんどいですよね…

3.九州征伐

九州征伐は今まで秀吉目線からしか見たことがなかったので九州の大名からの目線で見ることができて新鮮でした〜
九州征伐以前はよく知らない人や知らない城の名前ばかりで、本能寺の変のとき九州はこんな感じだったのかぁ〜みたいな感じで読んでいて…。
信長時代も九州は全く手付かずでしたからね。中国地方は秀吉が毛利と交戦しており、本能寺の変の3ヶ月前にやっと甲斐、信濃の武田を倒し、北陸は柴田勝家らが上杉と交戦、四国は本能寺の変当日が出陣日でした。
当時の九州は大友、龍造寺、島津の三つ巴で大友家は早くに秀吉に従う意向をみせており、大友家家臣の立花家や高橋家は大友家VS島津家の戦いに巻き込まれていきます。
この戦いのさなか宗茂や誾千代の父はどちらも亡くなってしまいます。当時大友家内でも大友宗麟と大友義統との間に確執があり、離反者も続発していたそうです。そんな中での立花道雪、高橋紹運の死ですから絶望的状況ですよね。この辺は手に汗握る展開でした。全くの無知だったので史実も知らず、どーなるの〜??はやく秀吉軍来て〜(ToT)って感じでした汗汗
高橋紹運が死んだ当時、宗茂はまだ19歳、誾千代は17歳。こんな絶望のなか、秀吉軍が来るまであの鬼島津と戦い、お城と家を守り抜いた2人には本当に脱帽です…。
最後まで読んでみて思えば、この戦いの誾千代が一番誾千代っぽかった!!??というか…。とにかくかっこよかったです…!!
高橋紹運が戦死したのは1586年の9月。
秀吉の九州出馬が、諸説ありますが1587年3月ごろ。島津の降伏が同年4月下旬ですから、本当にあと少しだったというか、、もう少し早く秀吉軍がこれば紹運助かったのかな、とか、いろいろ考えちゃいました…笑 秀吉も中国地方を抑えて紀州征伐も終えたばかりでしたから、ものすごい勢いなんですけどねえ…。
最期の岩屋城の戦いは本当に激戦だったらしいです。調べれば調べるほど痺れます。
高橋紹運の本も読んでみたい!!本当にかっこいいんですよね〜彼。

4.豊臣時代の宗茂と誾千代

大友家は秀吉に服従し、宗茂は大友家ではなく豊臣家直属の家臣になります。秀吉から柳河を与えられ、誾千代は人質として大阪に住むこととなります。
ここは誾千代の人生の一つの分岐点ですね。
父道雪のことを思うと離れたくない誾千代の気持ちは読んでいて辛かったです。
ただ、豊臣政権下、全国の大名屋敷が大阪や聚楽邸に集結し、人質を住まわすということは、日本史始まって以来のことでしょうから、誾千代をはじめ、自国から出たことのない大名や妻にとっては新たな人生の始まりですよね。誾千代もまた新たにたくさんの人と出会ったと思います。
この本の誾千代と秀吉とのやり取りの中で、秀吉の、人は望んだようにしか生きられない。望んだように生きていく。望んだことに周到に取り組めば必ず実現できる。という台詞があって、これがとても心に響きました。
秀吉に子供の頃から天下取りの野望があったとしたならば、これほどまでに自分の夢を実現させた男はいないでしょう。昔の人は今の人より平均寿命は短い。なのに、人に会ったり、手紙をだしたり、家事をしたり、小さな物事一つ成すにも今の倍以上かかる。立てた目標も3日、4日続かず、すぐに飽きて投げ出してしまう私なんかは先人たちの足元にも及ばないと痛感します。
1年やってダメでも2年やってダメでも諦めずに目標に向かって準備し続けた人が最終的に理想の自分を手に入れることができるんです。秀吉はそれができる人だったんですよね!

宗茂は豊臣時代、朝鮮出兵などで大活躍します。
宗茂は文禄、慶長とどちらも出陣しています。文禄の役のときはまだ25歳ですからね〜。若く勇猛な武将として一目置かれていたでしょうね絶対。

5.関ヶ原

宗茂は関ヶ原の戦いでは西軍につきますが、関ヶ原に陣をひくことはなく、毛利元康・宗義智らと共に東軍の京極高次の居城、大津城を攻めます。世にいう大津城の戦いですね。
関ヶ原の前、家康に散々東軍につくよう誘われ、西軍につくくらいならせめめ中立を保ってくれるよう懇願されたらしいですが、秀吉の恩義を忘れることはできないと、三成につくことを決意しました。
大津城の戦いは私よく知らなかったのですが、この本にもある通り、宗茂は京極軍に勝っていたんですよね…。宗茂は塹壕を掘り、激しい銃撃戦を行ったそうです。
上杉景勝と伊達政宗らが戦った北の関ヶ原や真田昌幸と徳川秀忠の第二次上田合戦もそうですけど、本戦以外は、割と西軍優位で動いています。
しかし本戦のほうはわずか1日で勝敗が決してしまいます。西軍敗戦の知らせを聞くと、宗茂は毛利輝元に大阪城での籠城を進言しますが、却下されます。西軍は人数こそ多いですが、やる気ない人やそもそも戦うつもりがない人が半分くらいいましたからね。宗茂はしぶしぶ柳河城に帰り、東軍に寝返った鍋島軍と戦うことになります。
この帰り道、本戦で西軍に組みした島津義弘率いる島津軍と出くわします。家臣は父の仇を取るなら今だと進言したらしいですが、宗茂は共に西軍についた仲だと島津義弘を国に帰す手助けをします。

この戦いでは誾千代も活躍しています。
加藤清正が宗茂に開城を説得すべく、柳河にむかう際、
「この街道をこのまま進むと、宮永村通ることになる。ここは立花宗茂夫人、立花誾千代の住居があって、宮永に軍勢が接近したときけば誾千代は軍を率いて攻め寄せてくるよ」
と聞かされたため、宮永村を避けて、迂回して行軍したと言われています。

宗茂と誾千代はこの戦いでも奮闘しますが、黒田官兵衛、加藤清正、鍋島直茂らの軍勢を前に宗茂は降伏し開城しました。
宗茂は死を覚悟していたらしいですが、清正らの必死の説得があり、降伏開城を決意しました。
私はこの戦いを全然知りませんでしたが、宗茂や誾千代の一生を追ってみると、やはり悔しくて仕方がなかったです(ToT)  宗茂が「城を開く。みなの者、異存はないか」と決心した瞬間、うわぁぁぁ…ツラァ…となりました笑。今の私たちはこれからの展開を知っているけど、この時代に生きていた宗茂や誾千代は「終わった」と思ったでしょうね、きっと。
家臣を雇える土地もなくなり自分たちが住んできた城もなくなりこの先どんな地獄がまっているのかわからない。本気で立花家は終わったと思ったと思います。
加藤清正なんかは本当に宗茂を尊敬していたんだと思います。立花家を終わらせないよう尽力してくれていました。宗茂の人間性ももちろんあったと思います。朝鮮でも、ともに辛い戦いを乗り越えた仲ですしね。

宗茂はその後浪人となり、数名の家臣と京へのぼります。ですが、ここでもやはり誾千代がついてくることはありませんでした。
誾千代は宗茂改易後、肥後国腹赤村の市蔵宅に移り住みます。本では加藤清正の手引きで移り住んだことになっていました。

6.誾千代の最期とその後

この本では宗茂と仲良かっただけに、最後はちょっと切なかったです。宗茂にとっては改易後、誾千代が側にいてくれた方が嬉しかったでしょが、誾千代にとっては立花城あっての、女子組あっての、一国一城の夫あっての立花誾千代なんですよね。宗茂が浪人となり、戦の世が落ち着きつつある中、誾千代はこれまで以上に領民や女子の苦しみ、生きづらさを感じてしまったのだと思います。
歴史が変わり、状況が変わり、それに気づいた時ほど悲しいものはないです。
柳河転封のあたりから、少しつかえるものがあって、それが関ヶ原後、側室のことや侍女の死などを通して彼女が宗茂たちと別の道を歩む決めてとなった感じがします。立花城の城督だった頃が本来の誾千代の居場所であり、ずっと生涯住みたかった場所だったのだと思います。
宗茂の妻として、政治に関わり、人も殺め、最後まで武人の妻として生きる道を行くか、家から離れ、夫から離れ、政治から離れ、世間を知ることなく一人の女性として縛りなく生きる道を行くか、、

史実では誾千代は、関ヶ原から2年後の慶長7年1602年に34歳で亡くなっています。若いですよね…
立花家は幕末まで続きますが、間違えなく誾千代あっての立花家だと思います。
幸せだったと信じたいです。
立花家がこの先どうなるのか、悩み多い中での死だったと思いますが。
改易された宗茂が旧領柳河に戻るのが1620年のことですから、これを知れずに亡くなってしまったのが個人的に本当に悲しいです。。。
夫婦仲はどうであれ、誾千代は誰よりも亡き父の家である立花家の事を一番に考えていたと思うし、夫にも立花家をさらに盛り立ててくれるよう期待していたと思うんです。最終的に宗茂は柳河11万石の大名に返り咲きますが、誾千代には関ヶ原後、夫が改易され、浪人となり、立花家は没落の道を辿るのかという不安と悲しみが少なからず残ったままだったでしょうから。

関ヶ原から20年越しに本領に帰ってくることができ、宗茂どれほど嬉しかったか、考えただけでも感無量です…。立花家はその後柳河藩藩主として大名に復帰し、明治維新まで藩主の座に付きますからね〜。

この本は誾千代目線での立花家でしたが、宗茂目線でも読んでみたくなりました!!
宗茂は長生きで家光の時代まで生きていますから、関ヶ原後の宗茂ももっと詳しく知りたいな〜

最後に、
立花誾千代をしれてよかった!!
大河ドラマの誘致とかもやってるらしいですよね!
大河ドラマやって欲しいなぁ。こんなかっこいい女性がいたということを沢山の人に知って欲しい笑!
九州や柳河にも行きたくなりました(^^)

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