強制シャットダウン
あれから1週間
最初は絶望しすぐに辞めると思っていた造船会社と居酒屋の掛け持ちは意外と続いている。
元々睡眠が別に好きではなかった俺にとって、1日2時間未満の睡眠もいつもより行動量が増えたと一喜一憂していた。
俺の日焼けした皮膚は殆ど剥がれてしまい赤みがかった褐色の肌になりつつある。
掛け持ちのリズム感も掴んできて順調に思えた。
掛け持ち開始から2週目に入った火曜日の夜
「お前、目が死んじゅうがや。」
高知県出身の同期が急に話しかけてきた。
塩素の臭いが厨房中に広がっている。ここは居酒屋だった。
自分が今何をしているかの意識はなかった。
長靴を履いてぼうずりを手にしていることに気がついたのは話しかけられてからだ。
そうだそうだと思い出したように俺は厨房の床を磨き始めた。
「違う、腫れてんの。」
「ヘルメットで影になってるけど、照り返しだと思う。3日目は目の奥が痛かったもん。」
「無理せんときよ。目がほとばしっちゅうぞ。」
「したくねえっつのー。」ぼうずりがたわむ。
迸るの使い方を間違ってるけど言いたいことの意味はなんとなくわかる。
俺はもう目が半分しか開かない上に日焼けで肌はボロボロ。
髪も潮風をずっと浴びているせいでボサボサになっていた。
ヘルメットを被った跡がついたまま仕事するのは嫌だったので、似合わないキャップを被ってその痛んだ髪がそこら中から飛び出している。
誰がどう見ても「だらしがない」の一言に尽きる。
しかしこの時期に俺はSNSで知り合った女の子とたまに連絡をとっていた。2ヶ月ほど経っただろうか。
こっちは香川に住んでいて、あっちは長崎在住の子だったので電話とメールだけだったがこのぶっ壊れそうな精神を癒すには十分だった。
恥ずかしいと言いながらも上裸の写真を送ってくれるので最高に興奮した。疲れなんてどうでもいい。
男なんてそんなものだろう。
後日、造船の仕事が終わり居酒屋が休みだった日。
夜行バスでそのまま彼女に会いに行った。
なんと往復だと20時間もかかる。しかし俺は異常にフットワークが軽かった。何も思わない。
費用対効果より会うことの方がずっと重要だ。
あちらが福岡まで来てくれるおかげで予定をなんとか合わせることができた。
明日の造船まで仕事はないが時間は限られている。
そんな時に遠距離でやり取りをしていた男女がすることと言ったら決まっている。何とは言わない。
あっという間に時は過ぎ去った。
俺の目に少し光が戻る。
2度いうが、男なんてそんなもの。
福岡から夜行バスで香川に戻り、家には帰らずそのままもう一度造船の仕事に向かった。
女性の影が見えて一気に華やかに見えただろうが、この土曜日に事件が起きる。
元は休みだったが急遽造船の仕事が入った。午前中だけだがそういう時のモチベーションというのは低いもの。
そしてこの頃、俺は仕事に完全に慣れていた。
もう無意識に玉掛け作業ができる。
と、思い込んでいた。
眠いなあ
空が広いなあ
鉄板が陽に当たってちょっとあったかい
あったかい
ん
急に世界がスローモーションになった。
今確か15トンの鉄板を運んでいて
それを降ろしているところだ
その下には腰の高さくらいの台がある。
この台の上に鉄板を置くんだな
あと台と鉄板の隙間は5センチもない
4人で鉄板の四隅が台からズレていないか確認しながら降ろしている
このあとは玉掛けの基本だ。
物を降ろす時は
「両手を上げろ!」
おじさんが無線で降ろす合図を出している。
物が沈む。
スローモーションから一気に世界が早くなる。
心拍数、呼吸、全身を巡る血液が異常に早くなる。
右手が動かない。
「あ、指、、、あああああkてゅgy@いWrbpcくぃうjん」
気がついた時には俺は地面に四つん這いになっていた。
厚手の手袋で見えていないが、右手親指の感覚がない。
近くの海でひと泳ぎでもしてきたのかと思うほど全身汗で濡れている。
「はあ、はあ、はあ、、、、はあ、、、。」
「とりあえず事務所行け。」
おじさんは慣れているように見えた。
「は、、、、、、はあ、はい。すみません!」
小学3年生の時、車に撥ねられたことがある。
それがフラッシュバックした
事務所まで歩くたびに指に激痛が走る。
見るのが怖かったが呼吸を整えてからゆっくりと手袋を取ると、爪が割れて出血しているだけだった。
爪全体がグラグラと血の上に浮いているのがわかる。
人が鉄板で潰れる話を聞いていたせいで、指の先端が無くなったのかと思ったがこの瞬間に一気に身体の力が抜けた。
俺は申し訳ない気持ちでティッシュでぐるぐる巻きになった右手の親指を左手で優しく宝石でも守るようにそっと抱えている。
みんな働いている時間なので事務所には俺しかいない。
部長さんが病院に連れていってくれるらしく、そのお迎えを人生終わったような顔で待っていた。
その間に社長さんがやってきて説教をされる。
造船所での事故は労働基準監督署に報告義務があるらしく、それは何かと会社的に悪影響らしい。
話を聞いているが何を言っているのかわからない。
首が倒れる。
暗い。
このタイミングで俺の意識は強制シャットダウンされる。
自分の働く会社の社長に叱られながら眠るなんてことがあるだろうか。
子供の頃は教師によく叱られていたので叱られ方を理解していたがこれは間違った選択だ。
普通は涙を流しながらひたすら謝罪を繰り返せば大抵、叱責は終わる。いつもそうやって対応してきたのに強制的に電源が切れてしまったので使用がない。
2週間ほぼ寝ずに働き続けたツケがここでくる。
「慣れた」なんて全ては錯覚なのだ。
人は生理現象から逃れることは絶対に出来ない。
俺は次の日
造船を辞めた。
部長さんに体力の限界だったと事情を話すとわかってくれた。
後日給料が居酒屋の店長から渡されたが2週間しか勤務していないのに茶封筒には15万も入っていた。
その瞬間だけ、辞めなくてもよかったかと後悔した。
まさきは今後の人生を改めて考え始めていた。
音楽に関わる仕事をしたいからといって、音楽学校にそもそも入学する必要はあるのか。
入学するまでの間あんな働き方をしていても時間の無駄じゃないか。
怪我して楽器が演奏できなくなったら本末転倒じゃないか。
学校に入ったからと言って必ず音楽関係の仕事に就けるとは限らないんじゃないのか。
寧ろ入学費を自分の機材に使って家でずっと練習できるほうが有意義ではないのか。
そうしたら学校に入学した奴らは学費ばかりに金を取られて2年間を過ごすが俺はその間に機材も技術も手に入れることができる。うん。
これだ。
しかし仕事はどうする。
どちらにせよ働く必要はあるだろう。
でも今となっては居酒屋で働き続ける必要性は感じない。
簡単に入社できるような、少しでも音楽に近づける仕事。
何かないか。
あれ、待てよ。機材を買うのはいつも楽器店だよな。
楽器店で働けば機材にも詳しくなれるはず。
給料をもらいながら知識だって得られるじゃないか。
なんでこんな天才的なことに今まで気がつかなかったんだ。
そうとなれば決まりだ。
店長に俺の考えを話して退職することを伝えよう。
仕事は片道40分かかるが行きつけの楽器店が求人を出していたのでそこに応募することにした。
死にかけていた目が急に輝きだす。
俺は昔から自分の悩みを周りの人に相談しない。
実は最初はしていたのだが、相手から返ってくる答えを一度も気に入ったことがないので途中から時間の無駄だと思うようになった。
どうせ聞いたってそれを無視して自分の思うように行動するのだから相談された方も不愉快だろう。
無駄に行動力があったのはこのせいだ。
後日。勤務中に時間を作ってもらって店長と話した。
なんだか店長は居酒屋に興味が無くなったことを察したのか少し素っ気ない。造船も続けられなかったやつがそんな好きなことばかりで生きられるはずがないと言いたいのだろう。
知っている。世間はそうやって自分のような人間を攻撃することを俺は知っている。
しかし一度燃え上がってしまった熱は冷めることを許さない。
この居酒屋には今まで生かしてもらえて本当に感謝しているが、進むことを決断し1ヶ月後に退職することになった。
「まさきが次返って来た時は店長の枠用意しとくわ。」
「ありがとうございます!」
楽器店の面接はすんなり受かった。
こんな簡単に音楽に関わることができたのか。
今まで選択肢になかったことを悔やんだ。
しかし本格的に接客をすることになる。
あらゆる楽器をお客さんに売り込むのが仕事なので当然だ。
居酒屋では厨房とホールのスタッフはセパレートされていて俺は電話対応しかしたことがない。
この時その不安は失速の要因にはならず
「勉強しまくるぞ!」と意気込んでいた。
失速どころか加速したと思う。
居酒屋勤務、最後の日は流石に泣いた。
「ありがとうございました。」
と言い切る前に扉を閉めて涙を隠したが丸見えだったと思う。
弾丸で退職したので送別会はなかったが、スタッフ全員が少しずつ出したお金で購入したというホールケーキと、なんと色紙に全員分のメッセージまで頂いてしまった。
自分は愛される人間ではないと思っていた。
形だけだったとしてもこんな嬉しいことはないと共に「もっとみんなの役に立てた」とここでも後悔をする。
実は帰ることができずに居酒屋の駐車場でしばらく泣き崩れていた。
「まさき、包丁の切り方はこうやってするんや。」
「その方が格好いいやろ?」
「顔が腹立つの僕だけすか?」
「まさき聞け。かっこいい男ってのは誰もしたくないことを率先してするもんや。」
「はい!溝掃除頑張ります!」
「まさきちだ〜。いつエッチしてくれるの〜?」
「しませんよ。好きな人としか僕はしないです。」
「かわいい〜。よけーに抱いて欲しくなる〜。」
「しませんて!!!」
「まさきいつも髪のセットうまいよな!今度セットしてよ!」
「先輩、猫っ毛なんで無理っす。」
「おい!服を汚すな!そんな汚い見た目のやつが作った料理食べたくないやろ!」
「はい!すんません!」
思い出すなあ
さあ、進もう。
静かな暗闇でエンジン音が鳴り響く。
次回「セールスできないマン」
「私たちは生活に不要なものを売っています。」
「そのことを忘れないように。」
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?