【雑記#11-③】私が芸術家になるまでのお話
昨日の続き。大学生編。
◆大学1年生のおはなし
とくにこの辺は何もない。強いて言うから、中高の時は校則でメディア出演禁止となっており活動範囲が限られていたのですが、その制約が無くなる。
そういえば、初めてメディアの取材を受けたのも大学1年になりたての時くらいでした。某テレビ局がやってるネットが主体の番組で、取材といってもTwitterのDMで連絡がきただけです。「バズったツイートを特集するコーナーです」と言われて舞い上がるも、コロナが爆発的に流行し、それ関連の速報のために案件が流れました。未だにちょっと恨んでいる。
ひとつとっても印象的だったことといえば、とある展覧会の最終日、追加で納品する作品を携えて会場に着き、カバンから箱を出した瞬間に作品が売れたこと。前日の宣伝ツイートを見たフォロワーさんが、わたしより早く会場に着いて待ち構えていて、「それください!」と言った。
この時のわたしはそれ以外の作品が完売しており、来た瞬間に唯一持ってきた作品もお迎えされましたので、帰るしかなくなった。というか、主催の人に「搬出待たずに帰っていいよ」と言われる。この日、滞在時間は15分であった。ある意味伝説である。
◆大学2年生のおはなし
この年は大きなことをたくさんやった。
4月半ば、朝起きると1件のメールが来ている。それはなんと、テレビ出演のオファーでした。
それも日本テレビさんから!両親には「とりあえず話だけ聞きたい」と相談し、どうにか了承を得る。
さて、問題は打ち合わせ&撮影場所をどうするか?ということ。そこで頼りになるのは………私の個展会場であり、それ以外でも通い詰めている都内の某カフェです。店主さんに「お店使ってもいいですか?」と連絡したら「いいですよ」と快諾してもらえました。
無事に顔合わせの日取りも決め、意気揚々とお店に向かいます。やってきたのは男性2人。ADさんとディレクターさんで、土曜朝のご長寿関東ローカル番組「ぶらり途中下車の旅」の取材でした。街歩きする範囲は毎回決まっており、その範囲にある面白そうな店をリサーチしていたところ某カフェに辿り着き、さらに店のHPを見て私の作品を見つけた、とのこと。
この時はまだ放送されると決まっていたわけではなく、この後も2回ほど打ち合わせをして、5月のGW明けに放送されるかどうか決まるとのことでした。
そんなわけで休み明けまで悶々と過ごし、GWが明けて2日ほど経ったのち、「放送決定しました」と連絡が来ました。
その後はもう大忙しで、当日の段取りについて説明を受けたり、「制作風景も撮らせてください」と言われていたために新しく作品の構想を練ったり、放送後から撮影場所として使わせてもらった某カフェで1ヶ月間のグループ展に参加する予定だったのでそれ用にも作品を作り、片道2時間かけて大学へも行き……………まあ〜〜疲れた。
そして撮影当日。このために休みを取ってくれた父に荷物を持ってもらい朝早く家を出る。この番組は芸能人の方が街歩きをする番組なのですが、撮影本番まではどなたが来るのか分かりません。緊張しつつも説明を受けてマイクをつけてスタンバイ。「普通に飲み物飲んでてください。いつも来てるカフェに新しいお客さんが入ってきた!みたいな感じで」って言われた。できるか!
そして本番。いらっしゃったのは某有名演歌歌手の方。紅白には毎年出てますね。何回か取り直しをしたり、作品の説明をして、2時間ほどで撮影は終わりました。
ただ、これで終わりではなく、この番組では芸能人の方が来る日とは別で、作品のアップを撮ったり、製作中の手元を撮影する日がありました。
そんなわけで、また別日の19時、撮影場所に集合して、今度はスタッフさんともお話ししながら手元を撮影してもらいました。
自分が過去に出た番組というだけでなんだか応援したくなってしまって、いまだにその番組はよく見ています。親も見てる。
そうそう、これと同時期に『energy2021』という、全国の作家さんの作品がいっぱい載った書籍にに私の作品も掲載されまして、テレビ出演と併せて母校に宣伝しに行ったら、先生方にすごく喜んでもらえて嬉しかった。
私が卒業した後に来たらしい顔も名前も知らない先生に「あなたが噂の○○さん!?」と駆け寄ってきて握手を求められた。謎。
さて、テレビの反響と言うのは凄まじく、6月のはじめに放送された途端、私のSNSはパンクした。Twitterは400人ほど一気にフォロワーが増え、4000人を突破。Instagramも500人増えた。生まれて初めてエゴサというものをした。それができるほどの反応の数だった。
撮影場所に使用したカフェで、放送の次の日からグループ展に参加していたのも良かったらしく、今まで見たことない数のお客さんが来た。作品は初日でほとんど全て完売し、その後追加で納品した作品も全てお迎え先が決まった。これがきっかけでまた別の出会いがあったのですが、それはまたいつか。
テレビってすごいんだなあ。
・もうひとつの転機
この年、もうひとつすごいことがあった。
年明けを待つ12/26の朝、中学・高校時代の同級生から突然LINEが来た。その子は中1・高3の時に同じクラスではあったのだけど、属しているグループが違ったこともありほとんど喋ったことはありませんでした。
ただ、私がこういう活動をしていることは知っていて、それを覚えていてくれたらしい。
その子は映画やドラマを作る会社で勤務していて、要約すると、「年明けに映画の撮影がある。監督が思いつきで演出に影絵を使いたいと言うが、なかなか制作できる人が見つからず、あなたに連絡をした」ということでした。
まずは親に連絡。「マルチか?」「勧誘か?」などと心配したが、まあ気になるので「話はとりあえず聞きます」と連絡し、責任者の方と電話でお話をする。悪い感じはしなかったのと、近いうちに打ち合わせがあるとのことだったので、それに参加することにしました。
そして12/28。案内されたのは住宅街の一軒家。一応オフィスらしいが、あまりにも家なので少し戸惑った。
中に入ると京都から来ていた副監督さんがいた。映画の仮の台本をもらって、パラパラめくりながら話を聞いた。キャストは有名芸能人だし監督も有名な人だし、悪徳業者ではなさそうだ。
20年前に舞台としてやっていた作品を、映画として構成し直すというもので、どうやら私の仕事はキャストを模した影絵の作品をデザインし、制作せよということらしかった。
この日は30分ほどで解散。次の打ち合わせは年明けの1/6で、その日までにいくつか試作を作ってきてほしいとのことだった。私、1/4〜1/5までお泊まりの予定入れちゃったなあ。
なんとか試作品は完成させ、お泊まりもエンジョイし、1/6。めちゃくちゃ雪だった。
そして指定されたのはここ。
東映撮影所!えー!いいんですか!
門の前でスタッフさんが待っててくれて、守衛所を潜り抜けてでっかい会議室に行く。中には20人くらいのスタッフさん(みんな男性!)がいて、皆さんとご挨拶。そのあとは部屋の電気を消して、試作品をライトで照らしながら素材や大きさについて相談をする。
なお、この時点で撮影スケジュールが明らかになるが、本番の撮影が始まるのは2週間後、私の作品を使って撮影するのはおよそ3週間後だった。この間にでっかい作品を20個くらい、動かしたいというからパーツを分けて作らねばならない。いや、聞けば聞くほど大変なんだけど…こんなのめっちゃ楽しそうじゃん!
幸いにも大学は冬休み中だったし、1月の終わりからは春休みだから授業期間って2週間くらいだったんです。2月からは毎年恒例の個展があるからその準備もあるけど、なんとかやれるスケジュールではあったんです。やるよ。やります。やるしかない。
この日の打ち合わせも30分程度で終わった。この時に、今後も守衛所を潜り抜けるための仲間の証(ネックストラップと社員証みたいなもの)をいただいた。副監督さんとはLINEを交換して、衣装や髪型を似せるため、制作に必要な資料をいっぱいもらった。
ここからは怒涛の日々。影絵の下書きをデータで送って、OKをもらって、ひたすら切り抜く。週に2〜3回ほど撮影所に通い、できたものをスタジオに置きにいく。たまにリハーサルを見せてもらったり、セットを案内してもらったり、撮影所の広大な敷地を見せてもらったりした。
ひとつ印象的なことといえば、初めてスタジオに行った日、ちょうど撮影中だったのだけど、目の前で俳優さんが動いてるのを見てちょっと感動した。まあ後半は感動してる暇なんかないんですけどね。
スケジュールに余裕は持たせてもらったけど、影絵撮影の前日は本当に大変で、18時〜21時ごろまで、スタジオの隅っこの作業場でひたすら机に向かっていた。19時ごろにクランクアップしたため、後半は暗いスタジオで1人で作業をしていた。この時はちょっと辛かったですが、帰りにロケ弁で出ていたらしい叙々苑の弁当をもらった。完成した時の喜びもひとしお。
次の日は影絵撮影本番。お昼頃にスタジオに向かうと、拍手で迎えられて嬉し恥ずかし。
「ぜひここで見てってください!」と言われて、撮影カメラの真横にイスを持ってきてもらい、ありがたくそこで見学させていただいた。
それがこれです。1:12くらいに映ってる影絵、これ私が作ったんですよ!!
というのは置いといて、本当に楽しかった。今まではずっと、どちらかというとゲストとして迎えられる側だったわけだけど、プロの現場に行って、1人の大人として忖度なく接してもらえたのは私の人生においてすごく大きな出来事だった。こんなこと、人生に一度あるかないかだけど、経験できたことがすごく嬉しかった。
これも母校に宣伝しに行ったら、お世話になった先生が「なんでそんなことになってんの!?」って言ってた。ほんとだよね。
あと、通い詰めていた某カフェ(テレビの撮影場所に使わせてもらったあそこ)の店主さんの親戚が当時私の母校に通っていたらしく、その子が「○○さんは学校で今1番有名な人」だと言っていたと聞いた。ほんまかいな。
これが公開された後、私はまたもやネットでエゴサをしていたのですが、影絵の評判が思っていた以上に良くて嬉しかった。この作品で私を見てフォローしてくださった方もいた。
Twitterで「森崎さんの顔をもっと大きくしてください。顔が大きいのがネタになっています」とオーダーされた話をしたらファンの方からめちゃくちゃウケていた。
我が家でも両親がネットでチケットを購入し視聴していたが、スタッフロールに流れる私のへなちょこハンドルネームをみて笑ってた。正直、ちゃんと製本された台本をいただいた時、1番最初にスタッフの一覧が出ているのですが、その時点でへなちょこだった。もし芸術家を目指す人がいたら、いずれメディアに出ても恥ずかしくない名前にしましょうね。
(現在進行形で思い出したかのようにエゴサをしている。当時はTwitterの感想しか見てなかったんだけど、時間経った今、ブログやyoutubeなどでも感想を投稿してくださっている方がいることに気づく。ゆっくりみます。ありがとう。)
(さらに追記。ネットで見て初めて知ったのですが、9/25に円盤化したらしいです。)
そして、これを機に私は芸術家として開業届を出した。無事に、名実ともに芸術家となったわけだ。これ以降の活動に関しては省略するが、この後も2年間ほど芸術家として活動することになる。この話はまたいずれ。