#人種と人の憎しみのはざまで『ドライビングmissデイジー』
今日は映画の感想(#)を。
『ドライビングmissデイジー』
「老女デイジーと、初老のベテラン黒人運転手ホークとの友情を描いたヒューマンドラマ」(Yahoo!映画より)だ。
"友情" ”ヒューマンドラマ" ”ハートウォーミング"なんて言葉が並ぶもんだから、ほっこり系かな?となんとなく見始めたけど、これはどうも違う。
『グリーンブック』しかり『最強のふたり』しかり、白人と黒人の立場を超えた友情、というテーマを扱った作品は多いけれど、それらに比べると『ドライビングmissデイジー』は、わりかし甘くない現実というものを描いている映画だと思う。
一見「白人のお金持ち女性」にしか見えないデイジーが「ユダヤ系」で、さらに物語の舞台は戦後まもないアメリカ南部。
ここまでの設定がされて、ただのキレイな友情物語では終われないよね、たしかに。
印象的だったのは、食事のシーン。
映画も後半、2人の絆もだいぶ深くなっているなって場面が続いたあとにふいに差し込まれる「別々に食事をしている2人」の映像。
そしてラスト、ホークが自分で食事ができなくなったデイジーと同じテーブルに座り、パイを食べさせてあげていた。
これを見て、「良かったね」とは、わたしは素直に思えなかった。
この映画で、デイジーが初めてホークに対し友情を「言葉」であらわしたのは、今でいう認知症の症状を発した直後だ。自分が今、どこにいて何をしているのかが分からなくなって初めて、デイジーはホークのことを「友人」と言った。
そして、あのラストシーンである。
自分が誰かもはっきり分からなくなり、一人では食事もできなくなって、、
そこまでの状態にならないと、デイジーはホークと、ただの友人として同じテーブルに座ることができないのだ。あまりにも、、寂しい結末ではないか。
そこにはきっと、わたしには計り知れない、連綿と続いてきた人同士の憎しみというものがあるのだろう。
「人種差別」なんて言葉では、軽すぎる。
そこにあるのは、たしかに強い「憎しみ」なのだ。
ホークとデイジー、2人はその流れの中でただ生きていただけ。
ただ肌の色が違うというだけで、ただ苗字が少し違うというだけで、ただ信じる神様が違うというだけで、なぜこんなにもの憎しみが生まれてしまうのだろうか。
映画を見ていて、1つふと思い出した本がある。
E.M.フォースターの『インドへの道』
簡単に言うと、第1次世界大戦後の英領インド、そこで起こる人々の対立や交流を描いたお話だ。
ここでも、イギリス人フィールディングとインド人アジズの関係は、単なるハッピーエンドでは終わらない。
友人にはなれないだろうかと尋ねるフィールディングに対し、アジズはこう答える。
”―そうです、われわれはいやらしいイギリス人を一人残らず海の中へ投げこんでみせる。そうしたら……そうしたら……あなたとわたしは友人になれるだろう。”
国、宗教、肌の色、、
一部の人たちが作り上げた"想像の共同体"に、わたしたちは抗わなければ。
彼らが夢見て、しかし成しえることができなかった友情のために。
とても熱く語ってしまいました。笑
ここまで読んでくれた方がいましたら、本当にありがとうございます。