ちゃんとしないことに決めた
私だけが入信していた「ちゃんとしないと教」(当然、実在はしていない)
他人に迷惑をかけてはいけないが基本にあった。
私は依存心が強いから自分でできることは努力する。
体調を崩しがちなので仕事は休まないように体調を管理する。
経済的にも精神的にも自立する。
真面目に人としてどうあるべきかということを常に念頭に置き、ちゃんとしている風に見えるにはどう行動すればいいかと考えていた。
「ちゃんとしないと教」の教えは、こうあるべきという理想に近づこうとするもので、それは私とは大きくかけ離れているものだから禁止事項がたくさんの厳しい戒律だった。
「ちゃんとしないと教」を信じ、何年も、何十年も経つと、私でいてはいけない、違う自分にならないと社会に受け入れてはもらえないと思うようになり、本当の自分を出すと嫌われて軽蔑されるかもしれないという不安が募った。だから「ちゃんとしないと教」のベールを必ず身にまとっていた。
「ちゃんとしないと教」の教えをきちんと守るためには私の感情が邪魔になる。常にちゃんとするのは難しかった。そこで社会の一員として生活する上ではベールを体中に巻いて、私生活ではベールを脱ぎ、2重生活のようになっていた。
私の感情はどうあれ、とにかく教えを守らないと生きてはいけない。
細かいルールの中でガマンしてばかりいた。
自分がガマンしていると他の人が同じことをガマンしないで自由にしていることが気に入らない。
次第に他人を監視をして「ちゃんとしないと教」を布教するようになった。
自分がガマンしているんだからと、ちゃんとしていないと思われる人に腹を立て、批判し、私の考えが正しいと押しつけてきた。
「ちゃんとしないと教」を信じている時は怒りがたくさんあった。
それはガマンしていることがたくさんあったということ。
最近「ちゃんとしないと教」をやめた。そして真逆を生きてみたいと思い、私がダメだと思っていたことを一つずつやってみている。
ちゃんとしないで、私がどうしたいか感情のままに生きていこうとしている。
これまでは仕事で有給があってもほとんど捨てていて休んでは迷惑がかかると休めなかった。
今のコールセンターの職場にはたくさん人がいて誰でも代わりがきく業務。派遣だから有給はないから休んだら無給なので、自己責任でちょっとでも調子が悪ければ無理せず休んでいる。
「ちゃんとしないと教」の時の私からすると、こんな考えの人には腹を立て熱血指導が入っていたはず。
そうやって自分がちゃんとしないでみると、いつのまにか怒りがぜんぜん湧いてこなくなった。
私がガマンしなくていいと許可すれば、他人のことにも、いちいち腹を立てることもなく、気にならなくなった。
これからはギスギスした私ではなく、温和で寛大な私になりつつあるかもしれないと自分自身の今後の伸びしろに期待している。