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非日常を日常に。どこまでが旅ですか?
私は旅が好きで、旅と日常生活の境目を越えることが苦手だ。私に限ったことではなく、連休の旅行から帰宅し、明日は仕事だ学校だというタイミングで大抵の人は憂鬱さを感じていると思う。
非日常と日常の入れ替わるタイミング、ここにはエネルギーが必要だ。旅は確かに日常の延長にあるのに、そこに明確な境目があるかのような飛躍があり、越えるのがとても大変。
旅行中にはその境界線を感じなかったとしても、後から思い出してみればそれはうっすらと霧の中、とても遠いところにある特別な時間だったように思える。
境界線を曖昧に、日常のような旅ができないか。例えば期間が長くなればどうだろう。数ヶ月にわたる旅だったなら?
若かった私は色々と手を尽くし、約3ヶ月間をドイツ語圏で過ごすという機会を得た。20代前半だった頃の出来事である。
語学を学びながら、寮のようなところでドイツ語を学びにきた他の生徒や地元の大学生達と共同生活を送ることになった。
私は勉強もさることながら旅が目的であったので、幾つかの都市で学生と旅人の間のような生活を送った。
お土産ではなくキャベツや洗剤をスーパーで買う。洗濯し、ゴミを捨て、料理をし、その土地で生活をした。しかし旅行気分はうっすらといつでも付き纏っていた。どうすれば振り払えるのだろう。
ヒントをくれたのはスペイン人のクラスメイトだった。短く切った髪がよく似合う彼女も、私と同じようにドイツ語初心者であり、同じような寮生活をしていた。
私たちのそこでの滞在期間は1ヶ月弱だった。しかしその間、彼女はあらゆる不便を受け入れなかった。
当時、外国で携帯電話を使うことは今ほど簡単ではなかったので、みんな学校が終われば連絡を取り合って待ち合わせすることは難しかった。しかし彼女はプリペイド携帯をいち早く契約し(ドイツ語が分からないからとても大変だったと言っていた)、ドイツ人の彼氏を作り、ガレージセールで中古の自転車を購入し、度々故障するその自転車を何度もリペアして乗り回していた。
滞在期間が1週間の旅行であれば当然、わざわざ自転車を買わずに、高くついても乗り心地が悪くても、レンタルで済ませる。
期間が1ヶ月になっても私は割と多くの不便を受け入れ過ごしていた。鍋がもう一つあれば助かるけど、全部フライパンで何とかする。終バスが早すぎて不便だけど自転車には乗らない。
エネルギッシュな彼女は鍋も自転車も観葉植物さえも手に入れ、そして最終的に学内掲示板で買い手を募集して誰かに譲って帰国したようだ(この処分方法はドイツ人の彼氏が教えてくれたのだと思う)
実際のところ、日本から行くよりもスペインの方が地理的にも文化的にも近いわけで、だからあまり違和感もなく変わらぬ生活が送れたのかもしれない。
しかし他のヨーロッパ圏のどこから来たクラスメイトよりも、ひときわ彼女は自国での生活が見えてきそうなくらい普通の生活をしていた。
日常のような旅というのが本当に良いのかどうかは、分からない。日常のようであれば、そんなに面白みもないのかもしれない。ただ、私の疑問に彼女がヒントをくれたのは確かだ。
不便さを簡単には受け入れない覚悟をする。そんな気概が当時の私には必要だった。
日常と非日常の境界線を曖昧にすることは結局叶わなかったが、彼女に会ったことはその後の私の旅に少なからず影響を与えた。
そしてノマド的な働き方が簡単にできる時代となった今、日常のような旅にチャレンジできるチャンスが再び訪れているのかもしれない。