空室
今、何て。
「もう逢えない」
何が?誰と誰が。何処で?
理解が及ばない。ミクロ単位の謎が頭を渦巻いていく。
君と僕が。
これを理解するのに1分もかかって、ようやく『何故?』というマクロな思考に至った。
そして、それが意味するところも。
血の気が引く顔。空虚になっていく心。
もう、戻れない。
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「大事な話があるの。手を止めて聞いて?」
彼女の言葉が5分前。
愛を確認し合う儀式が終わり食器の積まれたキッチンで、後は僕がやるからと彼女をリビングに送り出す。カチャカチャと軽快に音を立てながら白磁が白を取り戻し終わって、デザートにと林檎の皮を剥いていた。
切り方の1つでうさぎだなんて言うけれど、彼女の頭上で忙しなく揺れる”それ”を見て猫耳っぽく切ってみたりもして。
手を止めて、と言われる頃には丁度6個の猫耳りんごが小綺麗な皿の上に在った。
果物用の小振りな包丁を置いて彼女を見やる。そこには、"何時もの"、慈愛に満ちた聖母のような表情では無くて。
「どうしたの?」
言いにくそうに口篭る彼女に堪らず声をかける。
両の手の細指を1人絡ませて、バツが悪そうに手首を握る。そして幾度と無く愛を語った唇が歪む。
「ご、めんなさい…もう、逢え、、ない、の…」
捻り出すように吐き出された言葉。途中から嗚咽も混じり、言葉というより、それは『想いの原石』だ。砕けて割れた黒曜が如く、割れた瞬間の鋭利な切れ味でもって彼の心を引き裂く。
彼女の言葉を受け止めるでもなく、諭すでもなく、ただ。
何故
「どうして」
強すぎた彼の想いは、疑問形にすらならなかった。
聞きたくなかった。聞いてしまったら、答えが返ってきてしまうから。彼女の表情と言葉を証拠とした、”わかり切った答え”が。
「…行かなくちゃいけないの、私達」
「なら僕も一緒に」
続く彼女の返答は沈黙。
彼女が言う”私達”の中に彼の存在は無い。当然だ。
彼女の深紅の瞳が涙で濁って、その朱は蘇芳へと染まる。
思い出も、積み上げた愛も、偽紅のように褪せていくようだった。
哀が2人を繋いで、愛が2人を遠ざけた。
やめてくれ、そんな”偽物の赫”で僕を見ないでくれ。
絡まった愛を分かつ蜃気楼。愛が解かれていく様をただ見ているしかできない。
ずっと一緒で、寄り添っていられる。なんて、底なしの独りよがりの感傷が、彼のただ一つの寄る辺が崩れ落ちる。
いつかこうなる日が来るって分かっていた。彼女の置かれている立場に理解があるつもりでいた。
彼女を思うなら笑顔で送り出せるはずで。離れたくなくて泣きはらすのも、こんなものはエゴでしかない。彼女を好きだと思う気持ちに”自分”のエゴ何か必要ないのに。溢れ出すエゴが止まらない。
彼女ではない、彼女によく似た偶像に「夢」や「愛」だなんて呼ぶことで誇らしげになっていただけで、彼女の事なんか考えていなかった。
分かっている、分かっているのに。だからこそ自己嫌悪して、それでも離れたくないと思ってしまう。
いっそもう会えないなら、今この場で彼女の前で命を絶ってしまえ。
最低な思考が湧き上がっていく。悲しんでもらうためだけに、彼女の心に傷跡を残すためだけに、自分の命を”消費”しても良いとすら思えていた。俎板の上に置かれた果物ナイフ。手を伸ばして首を切るのに1秒もかからないだろう。
だけど、出来ない。出来るはずがない。自分のエゴで彼女を悲しませたくないという1%も満たない思考が最後のブレーキ。
この頬を伝った激情の行き場もわからず。
二人だけの世界、それが今この一瞬一瞬の内にも失われていく。
ずっと一緒にいたいと願った想いは望む程に薄れていた。
永遠なんてどこにもなかった。
幸せな今に縋る彼だけが、世界から取り残される。
今よりも幸せな明日が来ると、未来を信じられたらまた違う結果が訪れたのだろうか。
結局、違えた互いは交差することもなく。
「あなたと初めて会った日の事。覚えてる?」
「忘れるわけがないよ」
意地の悪い返答。それすらも慈愛をもって包む彼女の愛。
積み重なった1秒1秒の果てに、可愛げな林檎が黒ずんでもまだ会話は続く。
「出逢わなければなんて、そんなの思ってないよ。」
でも、きっとこれが最期だ。
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半端に空いたカーテンの隙間から覗く白け空。
突っ伏したテーブルから顔を上げ、毎朝欠かさず行っていたルーティーンによって目を覚ます。
「おはよう」
幾度投げかけた言葉も、もう今日から独り言。
2人でここに住もうと決めた2LDKの部屋、彼女の温もりと痕跡を何処に求めても、沈黙が続くばかり。
この残酷な天秤に、貴女の反対に、何を吊るせば釣り合うのだろうか。
貴女だけを願う。他に何もいらない。吊るすは僕。
君が教えてくれた歌。人生を救ってくれた抱擁。僕の名前を呼ぶ声。
失って、二度と手に入らないと分かって、初めて鮮やかになっていく。
恨めしい。悔しい。嫌だ。まだ過去形になんかしたくないのに。
せめて。
たった1回でいい。
独りよがりな愛と言われようとも、幼すぎる恋だと後ろ指差されても。
それでも、花束を持って大好きを伝えられたら。それだけで良かったんだ。
手の届かない、二度と手に入らない時間に思いを馳せて、慈しむ。
あぁ 逢いたいなぁ