長篇漫画の生みの親


今回、取り上げるのは、ポール・グラベト著「日本の漫画
60年の歩み」である。「私の丹念に集めた漫画本をゴミに出さなかった母と父に捧ぐ」と献辞に書かれている。

母を表す英語の綴りから、著者が英国人であることがわかる。また、ロンドンの出版社から2004年7月に出ていることも。

この国の漫画は、米国だけでなく英国でも、ある程度の人気があるということか。フランスのパリでは、日本漫画喫茶まで出現していると聞いたことがある。

第3章のタイトルは、「長篇漫画の生みの親」。独自の長篇漫画を紡ぎ出した手塚治虫の生涯と役割。

戦後、この国で漫画が急成長したのは、手塚の存在なくしては考えられないと断言している。また、日本で漫画が発達したのも、彼がたまたま、日本人に生まれたからだという。

もしも、父親が自然科学者で、治虫が5歳のとき、家族揃って英国に移住していたら、この国の漫画は、現在のような活況を呈していなかったのではあるまいか。

もっとも、そのときは現在のカズオ・イシグロに負けないほどの大活躍を、手塚は見せたことだろう。英国内だけでなく、世界中で。スタンリ・キューブリックと一緒に「2001年宇宙の旅」を作っていたらと、想像はどこまでも膨らむ。

40数年の漫画家人生で生み出したのは、600作品、原稿にして15万ページと型破りの数字を紹介している。ほかに、手がけたアニメが60作品、随筆、講義、映画批評もこなし、医者として患者を診たこともあるという。

こうした記録をつきつけられると、週刊誌「タイム」が過去1000年の間に世界に貢献した100人を前世紀末に発表したとき、どうして日本から、北斎とともに手塚治虫も選出しなかったのかと、疑問が湧いてくる。

北斎の漫画は芸術に値するが、手塚のは、そうではないというのだろうか。彼の生み出した作品は、ノーベル文学賞に値すると熱心なファンは、確信しているのだが。

「新宝島」に掲載されるはずであった31コマの漫画が紹介されている。車を運転する少年の顔のアップから始まり、波止場から船が出てゆく場面で終わる。

著者は、ここに映画の影響を見ている。途中から、だんだんとズームアップになり、正面を向いた少年の瞳に、轢かれるかと怯える犬が写っているのは、映画を超えている。漫画にしか出来ない表現法だといっていい。

もうかなり昔の話になるが、大学生のとき、下宿先の部屋で「ブラックジャック」を読んで、涙を流したことを思い出す。

たびたび小遣いをせびる老いた母を不審に思って、息子が外出する母を尾行すると、自分の子供のときの治療代を母が、今もブラックジャックに払い続けていることを突き止める話である。

同じ頃、芹沢光治良の「巴里に死す」を読んで、同じく涙した記憶はあるが、こちらの方は全然、内容が思い出せない。

これも、やはり同じ頃、原題が「悪いカップル」という、セバスチャン・ジャプリゾ原作かつ監督のフランス映画を見て、心を激しく震わせたことを想い出す。

若い尼さんと中学生ぐらいの少年のラブストーリーである。こうしてみると、画や映像による作品のほうが文字だけの文学よりも、印象に残りやすいということだろうか。それとも、筆者の想像力が若い頃から貧しかったことを示しているのだろうか。

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