草枕の英訳から日本語へ
肌を刺す秋の霧、指の間を静かにたゆたう湯けむり、夕餉の支度をしているのか、立ち昇る青白い煙、これらのものが、つかの間の存在にすぎぬ我々を、あっという間に、天へ運んでいく。
肌触りは、三者三様に異なる。だが、昔の人間になれるとしたら、今みたいに、裸のまま柔らかな湯けむりに包まれているときだけである。
私を包み込む湯けむりは、まったく視界が効かぬというほどひどくはない。といって、薄い絹の布切れというわけでもない。
取り払われるようなことがあれば、私がか弱く、いつか死んでいく、平凡な人間にすぎぬことがあらわになるだろう。
周りにもうもうと渦巻く湯けむりに隠されて、私の顔は、見えず、温かい虹の中に深く、私は埋もれている。
酒に酔うとは言うが、湯けむりに酔うという表現は聞いたことがない。たとえ、あるとしても、霞に使うわけにいかない。靄に使うには、強烈すぎる。
現在の湯けむりにこそ、この表現はふさわしい。これに、温泉の夕べを描写すれば、申し分ない。
我ながら、稚拙な英文和訳だが、この国の紙幣にも印刷された著者の「草枕」から、語り手が温泉に浸かっている時の感慨である。
この作品は、2008年にメレディス・マキニー訳で、ペンギン・クラシックスの1冊として出版された。発表されてから、100年後にオーストラリア人の手で英訳されて、漱石も草葉の陰で、随喜の涙を流していることだろう。
さて、字義どおりの拙訳が漱石の彫琢された原文に比べて、どれほど劣っているか調べてみよう。漱石、拙訳の順で示す。
秋の霧は冷やかに、たなびく靄は長閑に、夕餉炊く、人の煙は青く立って、大いなる空に、わがはかなき姿を托す。
肌を刺す秋の霧、指の間を静かにたゆたう湯けむり、夕餉の支度をしているのか、立ち昇る青白い煙、これらのものが、つかの間の存在にすぎぬ我々を、あっという間に、天へ運んでいく。
原文では、霧と靄と煙を主語にして叙述しているが、拙訳は、上の3つを名詞句にしている。また、原文には、代名詞がない。翻訳臭を消すには、この代名詞をできるだけ、削る必要がある。
「冷ややかに、長閑に」と形容動詞の連用形で文を繋げるのは、現代では、あまり見たことがない。「夕餉炊く、人の煙」は、「人の夕餉炊く煙」のほうが良くはないか。
この箇所、永遠の自然と必ず死ぬ運命にある人間を比べているのだろうか。マキニー女史は、「たなびく霞」から春を連想して、英訳では「春の霞」として、こんなところまで、細かく配慮している。「秋の霧」と「春の霞」で対句になると感じたからであろう。
筆者は、この春の霞を温泉の湯けむりと勘違いしたわけである。春も泉も、英語ではスプリング。はたして、湯船から人の煙は見えたのか。ふつう、外から覗かれないように、湯屋には窓がない。いや、露天風呂ということも考えられる。
どうして、春の夕べに、いきなり「秋の霧」が出てくるのであろうか。主人公は、このとき雨音、軒のしずくが落ちるのを耳にしている。
「わがはかなき姿」とは、「霧、靄、煙などの、たちまちに消え去ってしまうありさま。擬人法」と内田道雄の註にある。
筆者は英訳を最初に読んだので、上の拙訳のような意味だと漠然と思っていたが、別の解釈もありうることに、改めて気がついた。
様々の憐れはあるが、春の夜の温泉の曇りばかりは、浴するものの肌を、柔らかにつつんで、古き世の男かと、われを疑わしむる。
肌触りは、三者三様に異なる。だが、昔の人間になれるとしたら、今みたいに、裸のまま柔らかな湯けむりに包まれいるときだけである。
様々の憐れとは、前に述べた霧と霞と煙のことだと,英訳者は判断した。ひとつの見識である。筆者の「肌触り」は誤訳で、「琴線に触れるありようは」ぐらいの意味になる。
「何が彼女をそうさせたか」のような欧文によく見られる文型を漱石は使っている。最後は、「われは疑う」でも良かったのではないか。
眼に写るものの見えぬほど、濃くまつわりはせぬが、薄絹を一重破れば、何の苦もなく、下界の人と、己れを見出すように、浅きものではない。
私を包み込む湯けむりは、まったく視界が効かぬというほどひどくはない。といって、薄い絹の布切れというわけでもない。
漱石の視点は、浴場の天井をつき破って天にある。英訳の視点は、もちろん屋内である。
一重破り、二重破り、幾重を破り尽すともこの煙りから出す事はならぬ顔に、四方よりわれ一人を、温かき虹の中に埋め去る。
取り払われるようなことがあれば、私がか弱く、いつか死んでいく、平凡な人間にすぎぬことがあらわになるだろう。周りにもうもうと渦巻く湯けむりに隠されて、私の顔は、見えず、温かい虹の中に深く、私は埋もれている。
ここは、母の子宮への回帰願望をのべているのだろうか。筆者の所有する岩波文庫の「草枕」は、昭和11年、第14刷、定価20銭の古いものなので、総ルビである。
「ならぬ顔」の「顔」には「がほ」と濁点が打ってある。とすると、これは擬人化された天の顔ということだろうか。いみじくも、英訳では、か弱い存在としての人間を強調している。
外国語から日本語に翻訳するときも、このように訳者の判断で、原作にないものを追加説明する必要が、たびたびあるのではないか。誤訳を恐れるよりも、もっと読者に誤解を与えないことを考えて翻訳してもらいたい。
酒に酔うと云う言葉はあるが、煙りに酔うと云う語句を耳にした事がない。あるとすれば、霧には無論使えぬ、霞には少し強過ぎる。ただこの靄に、春宵の二字を冠したるとき、始めて妥当なるを覚える。
酒に酔うとは言うが、湯けむりに酔うという表現は聞いたことがない。たとえ、あるとしても、霞に使うわけにいかない。靄に使うには、強烈すぎる。現在の湯けむりにこそ、この表現はふさわしい。これに、温泉の夕べを描写すれば、申し分ない。
春も泉も英語では、スプリングなので、筆者は、最初の文に続いて、またも誤訳してしまった。
この作品は、今から50年ほど前に、「三角の世界」として、故アラン・ターニー教授が英訳している。マキニー女史も、ターニー訳を参照できるとはいえ、随分と苦労したにちがいない。