
エレネ・ナヴェリアニ『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』ナポレオンパイを頬張るエテロの、なんて愛おしいこと!

ジョージア映画というものを知ったのはいつだったか、もう10年ぐらい前にテンギズ・アブラゼ監督の〈祈り〉3部作『祈り』『希望の樹』『懺悔』を観たのが最初だったのか(早起きが苦手なのに、毎週朝一回目の回をいそいそと観に行っていた)、それともイオセリアーニ監督の作品だったか。絶対にどちらかだったとおもうんだけれど、それ以降、ジョージアという国から世に贈られる映画にはすごく心を掴まれてきた。巨匠にいたっても、永遠のこどもであるような無邪気な感触や小さな驚きが込められていて、ほんとうに不思議な魅力を放っていた。『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』も、また新しくジョージア映画って😊と思う一作だった。監督は、1985年生まれ、ノンバイナリーであるエレネ・ナヴェリアニ監督。
小さな村で雑貨店を営む48歳のエテロは、自分で摘んで作るブラックベリーのジャムと独身暮らしを愛している。しかし、そんな彼女の存在は、村の女性たちのあいだでは噂の的だ。ある日、クロツグミのさえずりに気を取られて崖を踏み外した彼女は、川で溺れ死んだ自分の姿をかいま見て、死を意識する。その後、突発的に男性とはじめて肉体関係を持つが……。
映画のなかでは、彼女が“憐れまれるべき存在”として何度も村の女たちの場に存在する。支配的な父と兄をもち、彼らが死んでからようやく”独り”という自由を享受できるようになったことも。だからこそ彼女は”独りでいること”を大事にする。出自や過去を想像すると、そんな”独り”を大事にし、豊かな曲線を描く身体を愛することは、家父長制とルッキズムが強固な価値観となっているこの世界では不可能なことに思えるが、スクリーンに欠落してきた彼女の身体がスクリーンに示され、彼女が愛をもって自分の身体を慈しむとき、それが可能であるということを示してくれる重要なキャラクターとして君臨してくれる気がするのだ。映画はつねに現実の写し鏡である以上のことを示してくれる。今の世界をぶち壊し、ルールを破壊し、当たり前だといわれていることが当たり前でない世界を教えてくれる。
彼女は自分の身体も欲望も否定しない。そして、所有されることを拒否する。だから、不幸せな女ではない。淡々としてはいるが温かみが欠如した無機質な映像にはならず、中年女性の”性”や”身体”、生活をセンセーショナルには描かない。ただほんとうにそこにあるものとして描き出された日常は、なんとも滋味深く、そのことが”抵抗”への強い意思を感じさせるものだった。
中年女性の生活というものが、もっともっと描かれて欲しい。なぜ女性は、若いかおばあちゃんではないと映画の題材にならないんだろうと長い間おもってきたけれど、ジョージアという国から、中年女性の新しい冒険の物語が生まれたことをほんとうに感謝している!
ᲨᲐᲨᲕᲘ ᲨᲐᲨᲕᲘ ᲛᲐᲧᲕᲐᲚᲘ|2023|ジョージア、スイス|110分|1.85:1|Color
監督:エレネ・ナベリアニ
出演:エカ・チャブレイシュビリ、テミコ・チチナゼ