母になることは「あきらめる」こと?
「あきらめる」という言葉は少し強すぎるような気がしますが、母になってから限りなく近い感覚を味わうことがあります。
日常的にではなくふとした時にできた自分時間に、荒野の真ん中で1人立ちすくんだような気持になるのです。
娘が生まれると同時に人生の優先順位がひっくり返りました。
最近、目が合うと娘が満面の笑みを浮かべて勢いよくハイハイしてきます。
足元にたどり着くとズボンの裾をくいくいっと引っ張ってだっこをせがみます。
そんな時、こんな感情が一体どこに隠れていたのかと不思議になるくらい彼女を愛しいと思います。
「娘のために生きている」と実感します。
たぶんこの「娘のために生きる」ことが「あきらめる」ことと密接に関係しあっているからなのでしょう。
お茶を入れようとしたら娘が昼寝から起きだしたり、夕食を食べようと思ったら娘がお皿をひっくり返したり、爪を切っていたら娘に爪切りを奪われたり・・
自分を「あきらめる」一瞬は短い時間でその理由がどんなに些細でも、積み上がって大きくなり、知らないところで新しい自分を形成しているかも知れない。
自分を「あきらめる」一瞬一瞬を重ねていくと、いつの間にか自分の為に計画することが難しくなるのでしょうか。
持て余していた時間の中で、やりたいことや好きなことに翻弄されていた独身時代が噓のようです。
今となっては、友達と出かける日に着たい服が思い出せない、休日に一人でやりたいことが思い浮かばない。
自分のことになるといちいち動きの遅いパソコンのよう。
ひょっとするとある日突然、好きな色でさえすぐに思い出せなくなるのかも知れない。
十年後を考えようとすると、太文字の二文字「育児」が通せんぼしてきます(汗)
写真は西オーストラリア州のとあるビーチで撮った、インド洋に沈む夕日です。
夕日がこぼれ落ちてキラキラ光る海面によく独りで身を投じていました。
海底の砂を両足で蹴って上がってくるときかすかに見える、海と空をつなぐ金粉のような境界線が好きです。